「オイ、そこで何をしているッ!」

文字通り飛び上がってしまったのは、まず第一にその時の私が他人の家の垣根に半分頭を突っ込んでいたからだ。何とも怪しい格好であることは十分に自覚していたのである。そして、ただ単にその男の声がとても大きかったからだ。

「ご、ごめんなさい…!」

私は慌てて垣根に突っ込んでいた頭を引き抜いた。不審者だと思われたに違いない。このまま警察に連絡されてはかなわない。一応人気のないのを確認したのだが、見られてしまった。もしこの家の人だったなら謝らねばなるまい。加えて、実際人に見られると怪しいことは重々承知していたとはいえかなり恥ずかしいことだった。

「何だ、変態なら退治してやろうと思ったのに、ただの女の子じゃあないか!」

やたらめったら美しい容姿の人間がいた。まるで映画のスクリーンから抜け出してきたようだった。私はまさかこんな美しい人が背後にいるとは思わなかったものだからしばらく呆けてしまった。色素の薄い髪は撫でたら柔らかそうだと思った。

「ん、にゃんこか?」とその人は言った。

そこで私はハッとして垣根を振り返った。私は何の意味もなく垣根に頭を突っ込んでいたわけではないのである。いくら人気がないとはいえ、私にはそのような趣味はない。

「そのにゃんこを捜しているのか?」
「な、なんで」

何でこの他人は分かったのだろう。全くもって彼の言う通りで、私は愛猫が逃げてしまったのを追いかけてこんな処まで来たのだ。そして猫を連れ戻したいがために垣根に頭を突っ込んでいたのである。つまり、苦労してやっと見つけたはいいが、その猫はするりとこの垣根の穴を抜けてこのお宅の庭に入ってしまったのだ。先ほど様子を覗いてみて分かったことは、愛猫はこの庭で私をおちょくるように毛づくろいを始めたということだった。

「何で分かったんですか」
「何で?それは僕が探偵だからに決まっている」
「たん、てい?」
「そうだッ!探偵は何でもお見通しなのだ!」

彼は自信たっぷりに言い切った。タンテイとはあの探偵という意味でいいのだろうか。何かの雑誌や小説にあるような、事件をすっぱりと解決するという探偵のことなのだろうか。そのような職業が世間には存在することは知っていたが、まさか目の前に存在することになろうとは思っても見なかった。

「捜しているにゃんこはそこにいるじゃないか。早く捕まえたらいい」

探偵は垣根を指差し、そう言ったあと、一寸間を置いて「いや、捕まえられなかったのか」と呟いた。そう、探偵の言った通り、私には捕まえられなかったのだ。頭を突っ込んだはいいが、垣根の穴は決して大きいものではなく、私の肩で引っかかってしまったのだ。尤も、垣根に人ひとり通れてしまう大きな穴が開いていたらそれは問題なのだろうけど。そして猫はそこから私が思い切り両手を伸ばしても届かない距離にいたのだ。

「ヨシ、僕が捕らえてやろう!」

彼は高らかに宣言すると先程まで私がしていたように勢いよく頭を突っ込んだ。彼の場合、それは勢いだけで実際は片腕しか入らなかったのだが。「捕らえたぞ!」と彼はそのままの体勢でこちらを向いて、大層楽しそうに顔一面に笑顔を広げた。

「ほうら、にゃんこだ」

猫を手渡される。彼の腕の中では大人しくしていた猫は私に抱かれた途端暴れだしたが、少し押さえるとすぐに静かになった。嗚呼、でもこれでは心臓の音が聞こえてしまう。それでも構わないと、必死に私は猫を抱えた。

「もう逃がすんじゃあないぞ」

逃がしてしまっても僕は捜さないからな。と、探偵は言った。どこからか「エノキヅさーん」と言う声が聞こえてきて、彼は「うるさい、そんな大声で呼ばなくても聞こえている!」とそのままくるりと踵を返して大股で歩いていってしまった。風を切るように歩く彼が視界から消えるのは早かった。猫がにゃあと短く鳴いて、そこで私はやっと我に帰った。嗚呼、折角猫を捕まえてもらったというのに、お礼を言い忘れてしまった。言い付け通り猫を逃がさないようにしっかり抱きながら、私はそんなことを思った。

私が探偵榎木津礼二郎と再会するのはもうしばらく後の話となる。