、さっきから何を読んでいるんだ?」
「関口さんの最新作です」

急に声を掛けられて驚愕したが、私はほぼ反射で答えた。あまりにも静かで、物音といえば私が頁を捲る音しかしなかったからだ。目の前の彼が大人しいのは寝ている時だけと言って良い。だから目を瞑ってソファの上でふんぞり返っている今は確実に寝ていると思っていたのだ。それでも淀みなく返事が出来たのは、日頃の訓練の賜物だろう。彼と一緒にいると驚愕させられることばかりなのだ。

「そんな猿の書いた文なんて読んでどうすると言うんだ。もっと有益な時間の使い方をするッ!」
「はいはい」

適当に返事をして湯呑みに手を伸ばす。要するに彼は退屈なのだ。現在この薔薇十字探偵社には探偵榎木津礼二郎と私しかいない。いつも彼がからかって遊ぶ人物は出払っている。和寅さんなんて「僕が食べたい菓子がない!買ってこいッ!」と自分から買い物に行かせたくせに。だからと言って私に相手をしろというのも如何なものか。もっとも、この探偵事務所で静かに本を読もうとすること自体ががそもそもの間違いなのではあるのだけれど。探偵とそして自分に少し呆れながら湯呑みを傾けるともう飲み干してしまっていた。いつもなら和寅さんが気を利かせて入れてくれるのだが、彼は不在だ。自分で入れてこようと立ち上がる。

「どこへ行くんだ?」
「お茶を淹れるだけですよ」

まるで子どもを相手にしているみたいだと思うと自然と笑みがこぼれた。榎さんも飲みますか?と聞くと、「いらない」と一度断ったあと、そのあとすぐに「やっぱいる」とまた子どものような返事が返ってきた。私はそんな彼の答えもある程度予想できたので、小さく笑いながら「分かりました」と返す。勝手に台所を拝借して自分と榎木津の分のお茶を淹れる。

「はい、どうぞ」

私は、じぃっとこちらを見ている彼の前にお茶を置いた。そうやって見ているのなら手伝ってくれたらいいのにと思ったけれど、どうせ言ったって無駄なので口には出さなかった。そのまま自分の分のお茶を持って先ほどまで座っていた場所に戻ろうとすると、ぐいと左手を強く引っ張られた。それでも何とかお茶を持った右手だけは水平を保ち零さなかったのだから褒めてほしい。

「え、榎さん?!何するんですか、お茶が…!」
「そんなものはその辺に置けばいい」

そんなこと言ったって、と思ったが一瞬手首を掴む榎木津の力が弱まったのですばやく湯呑みを置く。それを確認してからか、はたまた偶々なのかは分からないが、再び私の手が引かれた。そのまま私はすっぽりと榎木津礼二郎の腕の中に落ちてしまった。彼は「ふむ」と満足そうな声を出した。

「榎さん、せっかく淹れたお茶が冷めてしまいますよ」

ついでとはいえ、榎さんが飲みたいというから淹れてきたのに。無駄だと分かっていながらも私は呆れ顔でそう言った。それでも彼は一向に気にする様子もなく、「お茶などいつでも飲めるッ!」などと言うのだ。では私を抱きしめることなどいつでも出来る、否、いつだってしていることじゃあないか。一瞬そう思ったけれど往来でそんなことをしても良いと認識されても困るので黙っておいた。こういう場合、どういう対処をしたら良いのだったか。ああ、それでも今の状況はある程度予想していたことで、私はそれが満更でもないのだ。

彩られた午後三時