千早くんは笑うとかわいい。
「プリント配るぞー」
 そう言って担任が一番前の席の生徒にプリントを手渡していく。そうして順繰りに回されてきたプリントを自分の分一枚取ってから、残りの一枚を後ろに回す。
「はい」
「ありがとうございます」
 私がプリントを渡すと千早くんはいつもお礼を言って、そうしてにこっと軽く笑ってみせる。彼が笑うと八重歯が見える。眼鏡の奥の目がちょっと細くなって、雰囲気もやわらかくなる。
 後ろにプリントを回したくらいでいちいちお礼を言う人は千早くんくらいだ。礼儀正しい。クラスメイトに対して敬語は少しよそよそしく感じそうなものだが、千早くんが言うとそこまで他人行儀な感じがしないから不思議だ。
「うん」
 千早くんの丁寧なお礼に対して、私は適切な言葉を持っていなくて、曖昧に頷いて前に向き直る。もっと気の利いた返しが出来たら良いのに。でも、『どういたしまして』も違う気がするし、『いいよー』も違うし、そもそもプリントを後ろに回すのは当たり前でお礼を言われるようなことではないので結局毎回『うん』と返してしまう。
「はい」
「ん」
 隣の席の子は藤堂くんに雑にプリントを回していた。何なら後ろを振り返ってすらいない。どちらかといえば彼らが普通なのだろう。私たちは一ラリー多い。そう考えると千早くんがありがとうと言ってくれて良かったなと思う。後ろを振り返っていられる時間も長くなるし。
 そうは言っても、あんまり長く後ろを向いてもいられない。名残惜しいけれど、前に向き直る。担任がプリントの内容について説明しているけれど、まったく頭に入ってこない。
「すみません」
 後ろから名前を呼ばれる。思わず勢いよく振り返ってしまってから、今のは不自然だったかもと後悔した。千早くんは少し驚いたようにその目を丸くさせてから口を開いた。
「消しゴム、取ってもらえませんか? 落としちゃって」
「えっ、あ、消しゴム? いいよ」
 見ると私の足元にころんと消しゴムが落ちていた。手を伸ばしてそれを拾う。
「はい」
「ありがとうございます」
 さっきと同じやりとりだ。消しゴムを手渡すとき、ちょこんと指先が千早くんの手のひらに触れた。私はそれにドキリとしたけれど、そのことを押し隠して千早くんの顔を見る。消しゴムを拾ってもらったことに対する笑顔が返ってくる。
 千早くんの笑顔がかわいいことは多分クラス中の女子が知っているだろうけれど、彼のこの表情を知っているのは私だけだといい。

2023.08.08