こんなに必死に走ったのは何年ぶりだろう。足を右左右左と交互に出す。自分では精一杯走っているつもりなのだけれど、そのお世辞にも速いとは言えないだろう。バタバタと不恰好でみにくい走り方だ。けれども今はそんなことを考えている場合ではなかった。ただ逃げることだけが大切だった。後ろから聞こえる足音が少しずつ近づいてくる。追いかけてくる足音は私のものとは違って、軽快でテンポも速い。振り返って距離を確かめたい気もしたが、そんなことをしているうちに追いつかれてしまうだろう。後ろのことは考えずただ走らなくては。追いかけてくる人物のことを考えてはいけないのだ。
そうやって恥も外聞も捨て去って不恰好に走っていたのにも関わらず、手首を掴まれた。ぐいと腕を引っ張られてこれ以上進むことが出来なくなる。反動で後ろから追いかけてきた人の胸にぶつかった。触れたところがひどく熱くなったような気がしてパッと離れると、「傷付くな…」と声がした。
「バ、バーナビーくんごめんね」
振り向いてずっと逃げていた人物に謝る。決して傷付けたかったわけじゃなかったのだと弁解したかったのだけれど、バーナビーくんの顔を見ると続きの言葉はしゅるしゅるとしぼんでしまった。眉を寄せて不機嫌そうな顔をしている。一瞬で私に対して怒っているのだと理解した。
「それは先程の返事ですか?」
「えっと、そうじゃなくて…」
「では何に対する謝罪ですか?意味のない謝罪など聞きたくありません」
ごめんともう一度言いそうになって、直前で慌てて飲み込んだ。またバーナビーくんに怒られてしまう。彼は鋭い瞳でまだこちらをまっすぐに見つめている。私は居心地がわるくなって目を伏せた。本当はまた先程のように逃げ出したかったのだけれど未だ彼に腕を掴まれたままで、それも出来なかった。どうしていいのか分からなくなって縮こまっていると、私の腕を掴んでいた力がふと弱くなった。
「きついことを言ってすみませんでした。こんな風にあなたを追い詰めるつもりじゃなかったのに」
そう言ってバーナビーくんはこてんと私の肩に頭を乗せた。本当に軽く寄りかかるだけで、彼の腕はだらんと力なく横に垂れたままだった。彼の外にカールした髪が私の頬をくすぐる。思わず頭を撫でてしまった。傷付けてしまった罪悪感もあったが、こうして弱っているバーナビーくんを放っておくなんて出来なかった。いつもは人に弱みなんて滅多に見せないくせにたまにこういうことしてくるからバーナビーくんはずるいなぁと思う。
「そうやってあなたはやさしいから僕が付け上がるんですよ」
撫でていた手を止めると、彼は頭を上げて不安そうに揺れる瞳で私を見た。いつも自信満々でクールなバーナビーくんがはっきりとした不安を見せるなんて初めてだった。
「どうして逃げたんですか。僕が嫌いですか?」
そう言われて私ははっきりと先程のことを意識した。私がバーナビーくんから逃げた理由だ。ほんの数分前、バーナビーくんに突然名前を呼び止められて「なに?」と振り向くと、一呼吸置いて彼は「好きです」と言った。私は何が起きたか理解できなくてぽかんとしていると「好きです」ともう一度彼は同じことを言った。じわじわと言葉が脳みそに染みこんできて、その意味を理解した瞬間私は彼に背を向けて逃げ出していた。
「だって、だってこんなの嘘だもん」
「どうしてそうなるんですか」
「どうせテレビのどっきりとかなんでしょ。ヒーローに告白されたら女の人はどういう反応するか、みたいな」
「僕がそんな馬鹿馬鹿しい企画に乗ると思いますか」
「お仕事なら仕方ないと思うかもしれない」
バーナビーくんみたいなハンサムなスーパーヒーローが私なんかのこと好きになるわけない。釣り合わない。それにバーナビーくんがもし誰かに告白するのだったらきっとビルの最上階にある三つ星レストランで夜景を見ながらワイン片手にスマートに済ませるに違いない。そうじゃなかったらおしゃれなカフェだ。絶対そうに違いない。間違ってもこんなトレーニングルームの廊下でお互いハーフパンツにTシャツのこれ以上ないラフな格好であのバーナビーが告白をするなんて誰が予想するだろうか。
「僕はそんな人間だと思われていたんですね」
「じゃなきゃ夢かも」
「なら僕がつねってあげましょうか?」
そう言ってバーナビーくんは本当に私の頬をつねった。しかも結構遠慮のないつねりかただった。「いひゃい」と間抜けな声を出すとバーナビーくんは意外にもあっさりと手を離してくれた。しかし最後に溜め息を吐くのは忘れなかった。
「いい加減素直になったらどうですか」
まさかバーナビーくんにそんなことを言われる日が来るなんて思わなかった。普段はバーナビーくんの方が全然素直じゃないくせに。
「バーナビーくんじゃないみたい。まさか偽者?あ、もしかして折紙くん?」
「そういうごちゃごちゃはもう十分です。あなたの正直な気持ちを聞かせてもらえませんか」
そう言ってバーナビーくんが再び私の手を掴んだ。もうさっきのように逃げ出すことは叶わない。ぎゅうと両の手を掴まれて瞳を覗き込まれる。
「まさかバーナビーくんに追いかけられるなんて思わなかったよ」
「僕が追いかけるのは犯人と、あなたぐらいですよ」
「うまいこと言ったつもり?」
「うるさい。いつまで逃げる気ですか。僕はあまり気が長くないんです。知ってました?」
それは知らなかったなぁ。いつも余裕のあるバーナビーくんしか知らない。今日初めてバーナビーくんの弱ってるとこ見たし、スマートじゃないバーナビーくんも初めてだ。私の頬を容赦なくつねるとは思わなかったし、気が短いのだって知らない。そして何よりこんな風にストレートに感情をぶつけられたのは初めてだった。あのヒーローのバーナビーとはイメージが違う。けれども、こういう人間らしいバーナビーくんは嫌いじゃない。
「バーナビーくんのこともっとよく知りたいと思うよ」と正直に伝えると、彼は「素直じゃないなぁ」とくしゃりと笑った。その顔も初めて見た。
2011.07.22
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