「なにしてるんですか」
その声に私は本棚に立て掛けた梯子の上で振り返った。
「ビートくん!」
名前を呼ぶと、彼は改めてこちらを見上げた。ビートくんをこんなふうに上から見ることもなくて新鮮な気持ちがする。くるりと巻いたつむじがよく見えた。
彼は怪訝そうな表情をして、私からその向こうの本棚へちらりと視線を走らせる。
梯子が立て掛けられているのは、いかにも魔術師の家にありそうな、天井まで届く書架だ。しかしその中身は劇団で使う台本や物語、ジムリーダーとして必要な資料や書類、そしてポプラさんの個人的な蔵書で埋められている。それは彼女がジムリーダーを退いてからも変わらず、「適当に処分しておいておくれ」なんて言われても日々の業務に追われ、代替わりしてしばらく経った今でも同じように置かれていた。
「あなたが探していた本ならちょうど右側にありますよ」
「どうして私が探してたこと知ってるの?」
「ないない、とずっとブツブツ言いながら部屋の中を練り歩いていて気付かない方がどうかと思いますけどね」
独り言を聞かれていたなんて恥ずかしい。それを誤魔化すように本棚へ向き直る。
「本当だ、あった――」
彼の言葉に従って右側へ視線を移すと、確かに探していた本のタイトルが飛び込んできた。ここからでもギリギリ届きそうだと右手を伸ばす。目測通り、お目当ての本に指が引っ掛かった。
――けれども、瞬間、ぐらりと梯子ごと体が傾いた。
「あぶな……!」
焦ったビートくんの声がした。来るであろう衝撃を覚悟して目を閉じる。
バラバラと本の落ちる音がした。
けれども、いくら待っても痛みはやってこなくて、それどころか肩のあたりがあたたかい。
そっと、ゆっくり目を開けると、彼の服の色が目に飛び込んできた。肩を包んでいるのがビートくんの腕で、今私は彼に抱きしめられているのだと気が付いて、一気に頭に熱が上る。
堪らずふらりと一歩下がると足元に落ちていた何かに躓いた。かくりと膝が折れてバランスが崩れる。
「きゃ!」
「ちょっと……!」
再び彼との近付いた距離に、私はパニックになった。体勢を立て直すことも出来ずに、そのまま後ろに倒れる。――ビートくんが咄嗟に私の手首を握ったけれど、間に合わない。
ドサリという派手な音の割に、背中に受けた衝撃はそれほど大きくなかった。
「ビートくん、ごめ――」
ひどく近くにビートくんの顔があった。くるりとやわらかい彼の髪が私の額をくすぐる。
彼の向こうには天井が見え、背中には確かに固い床の感触がある。それなのに、何故かふわふわと夢みたいな心地がして、まるで現実感がない。
ふと彼の長い睫毛が震える。反射的に閉じられていた瞼がゆっくりと開いて、紫色の瞳が焦点を結ぶ。
「いたた……。あなたって人は本当に――」
彼の言葉が途切れる。彼の瞳の中には私が映っていた。
はっと小さく吐いた彼の息が私の唇に落ちる。小さく息を吸えば埃っぽい本の匂いに混じって、彼の匂いがした。
「ビートくん……」
彼の名前を呼ぶと、私の手首を握る彼の手にぎゅっと力が込められる。痛くはなかったけれど、触れられた部分がジリジリと焼けつくような感覚がする。
至近距離で見る彼の瞳は宝石のように綺麗な色で、その瞳が、一度、二度と瞬きをする。
掴まれた手と聞こえる彼の息遣いのせいで、まるで金縛りにあってしまったかのように身動きが取れない。
彼の唇が何かを紡ごうと、薄く開く。
思わず、ぎゅっと目を瞑った。
「……っ! 今退きます」
そう言ってビートくんが体を起こす。掴まれていた手首も自由になって、私も上半身を起こした。
ひらひらと両手を振ってみる。手はいつもと同じように動くし、やっぱり痛みもない。
それなのに彼はひどく思い詰めたような表情をしていた。
「押し倒されたのかと思っちゃった〜」
彼があまりにも苦しそうな顔をしているから、冗談にしてしまおうと思ったのだ。笑ってなかったことにしてしまおうと。
けれども、戯けた調子で言ってしまってから、余計なことを口走ってしまったと後悔した。ビートくんがひどく不快そうに眉根を寄せたから。
「だ、誰が! あなたを押し倒すわけないじゃないですか!」
「そ、そうだよね……」
私の方だってまさか襲われたいなんてことではないし、彼の答えは紳士として当たり前のことを言っているだけだ。けれども、こうも強く否定されてしまうと少しだけ心が曇る。彼に全く異性として魅力を感じていないのだと言われたような気がして。
つきりと痛んだ胸に、思わず服を握ってその場所を押さえる。
そんなことを考えたって仕方がないのに。
再び沈黙が流れる。
何か言わなきゃと思うのに、言葉はまるで手のひらから零れ落ちるようにまとまらなくて、結局口に出来ないまま飲み込んでしまう。
先に口を開いたのはビートくんの方だった。
「……すみませんでした」
そう彼が言う。ビートくんが謝る理由が分からなくて、私は首を傾げる。彼に非はなく、謝るべきは私の方だ。それを伝えようと顔を上げたのに、言おうとしていた言葉はまたすっかりどこかへ消えてしまった。
彼の手が私の方へ伸びてくる。
「手、痛みますか?」
彼が私の手首に触れる。ひどくやさしい手つきに思わずビクリと肩が跳ね上がった。それに気付いて彼が一瞬動きを止める。
ビートくんが顔を上げて、探るような紫色の瞳と視線が交わる。私はそれにどう返したら良いのか分からなくて、ただその瞳を見つめ返すことしか出来なかった。
痕なんて残っていないのに、未だ彼が触れた場所がはっきりと分かるような気がした。何も残っていない場所を、彼の指がゆっくりとなぞる。
一度、二度。
彼の指先が往復する。
そっとまるで大切なものを扱うような触れ方に、ぎゅうと心臓が締め付けられて、何だか泣きたいような気持ちになった。
いつものように鈍臭いですねと言って笑ってくれれば良かったのに。
「だい、じょうぶ……」
そう答えたものの、彼の触れた場所に痛みではない甘い痺れが走る。本当は何も大丈夫ではなかった。
それを不自然には見えないようにそっと手を自分の元へ引き戻して隠した。胸の前でぎゅっと手のひらを握り込めると、心臓がいつもよりずっと早く鳴っている。
「ビートくんこそ怪我してない? 庇ってくれてありがとう」
先ほど強く掴んでしまったのを思い出して、痛めていないか案じてくれたのだろう。彼にそれ以外の意図はないはずだ。そうやって何とか自分を納得させようとする。
「ぼくは大丈夫です。他に痛むところは?」
「何ともないよ」
彼に手を引かれるまま立ち上がる。すっかりいつもと同じ目線に戻った。いつもと同じ視線、いつもと変わらない会話のはずなのに、ざわめく胸は一向に治まってくれそうにない。
見上げると、彼はふいに瞳を伏せる。重ねた手がそのままだったことに今さら気が付いた。
今度はその手が彼の方から離される。それがひどく惜しく感じられた。
「もう人の上に落ちてこないでください」
「もう落ちないよ! ……ちゃんと気を付ける」
「どうだか」
そう言って彼が笑う。彼はもうすっかりいつもの調子だ。
そっと彼の触れた右手首を撫でる。まだそこに彼の指先の感触が残っているような気がした。
2020.02.24