その男の子がやってきたのは少し前のことだった。

 変わらない毎日の中に、それは一粒の雫を落としたように現れた。

 ポプラさんは私が小さい頃からこの姿だし、町の皆はマイペースで、ルミナスメイズの森はいつもきのこがほんのりと淡い光を放っている。それらはずっとずっと変わらなくて、きっとこれからも私の日常は同じように続いていくのだと思っていた。


 ――そんな町に突然ポプラさんがひとりの男の子を連れてきたものだから、ジム中が大騒ぎになった。
 しかも、彼がこのアラベスクスタジアムの後継者だと言う。

「あら、あんなに探しても見つからなかったのに」

 チヨさんの言う通り、長いことポプラさんはこのアラベスクスタジムにやってくるチャレンジャーに対してオーディションと称したクイズを出しては後継者探しをしていた。
 ここまで辿り着くことの出来るジムチャレンジャーたちは決して数多くない。それだけあって皆強く、それぞれひとつはキラリと光るものを持っていた。
 しかし、そんな才能が光る彼らも、ジムバッジはゲット出来てもポプラさんのオーディションに合格することは出来なかったのだ。

 ビートと紹介された少年が良いトレーナーであることは素人の私にも分かった。
 けれども、数多のジムチャレンジャーたちにはなかったものを彼だけが持っているようには見えなかった。バトルは確かに強かったが、ひどく抜きん出ているようには見えない。
 ――でも、彼女が選んだということは、きっと彼には何かがあるのだろう。こういうとき、ポプラさんの方が私よりもずっとずっと多くのものを見ているのだと気付かされる。

  *

「彼が来てから少し賑やかになったわねぇ」

 彼はあれから毎日ポプラさんの修行を受けている。
 何も手伝えない私は、コトさんとチヨさんにお茶を振る舞ったり、簡単な事務処理や衣装作りをしながら眺める日々だった。

「もう、コトさんもチヨさんも落ち着いていませんか?」
「こういうものは突然降って出てくるものですからね」

 そのコトさんの言葉は分かるような分からないような気がした。彼がジムで修行する姿を連日見続けた今となっては、そういうものなのかとも思う。

「そういうものですか?」
「そういうものよ」

 コトさんは私が淹れた紅茶を優雅に飲みながら言う。私も席に着いてクッキーを頬張る。

「このクッキーおいしいでしょう? 当たりだったわね」
「本当。また買ってきましょう」

 彼女の言葉に頷きながら言う。かじったクッキーがさくりと心地良い音を立てる。

「――サイコキネシス!」

 バトルを繰り返す彼の声はいつの間にかこのジムの日常になりつつあった。

  *

 大きな窓にぽっかりとまあるい月が浮かび上がっている。

 ふと顔を上げると、いつの間にか窓の外はすっかり暗くなっていた。縫い物をする手を止めてふぅと息を吐く。

 そのとき、ガチャリとドアが開く音がした。思わずそちらを振り返ると、最近よく目にする上着の色が視界に飛び込んできた。
 ああ、しまった、と思ったときにはドアノブを握ったままのビートくんとばっちり目が合ってしまっていた。

「こ、こんばんは」
「……どうも」

 交わした挨拶はお互いぎこちなかった。

 彼が初めてやってきた日に皆と一緒に自己紹介は済ませたはずだけれど、彼が私の名前を覚えているか怪しい。この数日彼とふたりで喋ったことはなく、ポプラさんたち皆でお話するときも私は目立たないよう隅っこで大人しくしていた。
 苦手というわけではないのだけれど、直接の接点がないのでどう接して良いのか分からなかった。

 一言で言えば、気まずい。

 何を話すべきか必死で頭を回転させてみたけれども、こういうときに限って何も浮かばない。

 しかし、沈黙を破ったのは意外にも彼の方からだった。

「まだいたんですね」

 そう言って彼はツンとあごを上げた。

「それ、昼間からやっているようですがまだ終わっていなかったとは」

 そう言って彼は私の手元を見やる。私の手の中には繕い途中の衣装がある。
 彼の言う通り、昼間も少しだけ作業していた。けれどもチヨさんとのお喋りが盛り上がってしまってつい中断してしまったのがいけなかった。そのくせ、夕方に再開したらつい熱が入ってしまい、気が付いたらこの時間だったわけなのだけれど。

「キリが良いとこまでやっちゃいたくて」

 曖昧に笑いながら言う。今日どこまでやるかなんて全く考えていなかった。遅くならないうちに帰らなきゃダメよと声を掛けてくれたチヨさんの言葉を思い出した。

「ふうん……」

 彼も尋ねてみたものの、大して興味がないようだった。

 一瞬、会話が途切れる。
 このまま繕い物に戻るという選択肢も私にはあったはずだった。それなのに、もう少しだけ。いや、もっと彼と話してみたいと思ってしまったのだ。

「ビート、くん――」

 初めて彼の名前を呼ぶ。慣れないその響きは舌の上で転がって、放られる。それはふたりの間にぽとんと落ちたように感じた。
 しかし、はっきりと届かなかったそれを彼はきちんと拾い上げてくれた。

 すっと彼が視線を上げて、紫色の瞳がまっすぐに私を射抜く。

「ビートくんは? いつもこんな時間までいるの?」
「今日は確認しておきたいことがあってたまたま残っていたんですよ」
「一緒だね」
「全く一緒じゃありません。居残りの人と同じにしないでください」

 間髪入れず否定が飛んでくる。
 確かに彼の言う通り、真面目に修行に取り組んでいるビートくんと私を一緒にしてしまうのは失礼だったかもしれない。――ポプラさんに文句は言うけれども、バトルに対する姿勢には少しずつ真摯なものがちらりと見えることに私でも気が付いていた。

「……そろそろここも閉めるようですよ」

 それだけ言って、彼がくるりと背を向けた。

 ――今度こそ会話が終わってしまう。
 じりと胸の奥にちりつく感覚は焦燥感だったのか、後悔だったのか。

「ビートくん!」

 大きな声で彼の名前を呼んだものだから緊張で大きく心臓が鳴る。彼の方も呼び止められるとは思ってなかったのか、振り向いて微かに目を見開いた。
 もう、ここまで来たら引き返せない。

「えっと、もし良かったらこのクッキー食べない? ほら、疲れたときは甘いものって言うし! ビートくんが疲れてそうに見えたとかそういうことではないんだけど! むしろあんなにずっと修行を続けてたのに涼しい顔だなと思うんだけど」

 テーブルの上からクッキーの箱を手に取って彼に差し出す。ずいと勢いよく出されたそれを、彼はさらに目を丸くさせて見ていた。
 驚いた彼を見て、必死になっている自分が急に恥ずかしくなった。

「あの、おいしいから、食べてみてほしくて」

 彼の視線が上がって、私の顔へ注がれる。きっと今の私はひどく情けない顔をしているに違いない。
 彼が返事をするまでの時間がひどく長く感じた。

「そこまで言うなら、もらってあげてもいいですけど」
「ぜひどうぞ!」

 そう言ってさらに箱を彼の方へ寄せると彼はちらりとそれに視線を落としてから、手を伸ばした。
 綺麗な長い指が直前でぴたりと止まる。

「……変なもの入ってないでしょうね?」
「入ってないよ!」
「なら良いですが……」

 疑いの眼差しがゆるんで、今度こそ彼の指がクッキーを摘む。

「いただきます」

 彼は小さくそう言うと、ぱかと開けた口の中にクッキーを放り込んだ。
 私は少しの緊張を抱えながら、彼がもぐもぐとクッキーを咀嚼する様子を見守った。こんなにじっと見られては彼も食べにくいとは思ったのだけれど、かと言ってどこへ視線をやったら良いのかも分からない。あちこちに視線を彷徨わせているうちに、彼の喉が動いて、ごくんとそれを飲み込む。

 ――ふと、彼の口元がゆるんだ。

「甘すぎです」
「チョコチップも入ってるから……」

 そう答えながら、胸の前で自身の両手をぎゅっと握りしめる。

 ふいに、まるでふわりと雪が一片、胸に舞い落ちたような心地だった。それはじわりと染み込んで、あたたかく広がっていく。

 それが、ひどく心地良かった。

「あの! もし良かったら、明日一緒にお茶飲まない?」
「はぁ? 誰があなたなんかと……!」
「もちろんコトさんとチヨさんも一緒だよ。それに時間が合えばポプラさんも」

 いつも彼は休憩を言い渡されると一人でふらりとどこかへ行ってしまう。ビートくんも一緒にお茶出来たら良いのにというのは前から思っていたことだった。

「チョコチップ入ってないクッキーもあるから」

 「ね!」と彼を見上げて駄目押しすると、視線の合った彼のアメジストの瞳が揺らめく。その色からは何を考えているのか私にはまだ分からない。

「……仕方ないので考えておいてあげます」
「ありがとう!」
「考えておくだけです!」

 その言葉だけで充分だった。

 また彼が微笑むところを見てみたい。
 明日はクッキーだけでなく紅茶の茶葉もとっておきのものを用意しよう。彼も気に入ってくれるだろうか。

 ――一緒にいたら、いつか、またあの笑みを見られるだろうか。

「あなたは本当強引ですね」

 そう言って彼が息を吐く。

「ビートくんはやさしいね」

 私はそう返しながら小さく笑う。


 少しずつ、彼のいる日常にも慣れてきたと思っていたのに。先ほどの短い時間でまるで何もかも変わってしまった。

 瞬きをするとちかちかと瞼の裏に未だ眩い光が残っている。

2020.02.09