「あんたはそれで良いのかい?」

 出掛ける直前、ポプラさんは私にそう言った。
 突然の言葉に目を丸くさせるばかりの私を、魔術師はまるで心を見透かすかのような瞳でこちらをじっと見つめていた。



「何をぼんやりしているんですか。置いていきますよ」

 その言葉に私は慌てて顔を上げた。見るとビートくんは数メートル先に立っている。いつの間にこんなに遅れていたのか気が付かなかった。

「まったく、この調子では日が暮れてしまう」

 私も一緒に行きたいと言ったとき、彼はかすかに眉を寄せた。はっきりと言葉には出さなかったけれど、きっと迷惑だったのだろう。彼はプイと顔を背けて、「勝手にすれば良いでしょう」とだけ言った。

 一体何の用があるのだと聞かれなくて良かった。もし尋ねられても答えられなかった。用事があるようなふりをしてついてきたのだけれど、本当は彼と少しでも一緒にいたかっただけで、森にもその先にも一切用事はなかったのだから。
 追及されなかったことに安堵するべきだ。

 それなのに、じりじりと焦げつくような焦燥感だけが胸の奥にこびりついている。

「ビートくんってもうすっかりアラベスクタウンに馴染んだよね。ジムリーダーの仕事もしっかりこなしてるし……」
「何を今さら」

 当然ですと満足そうな声が返ってくると思っていたのに、彼は言葉を区切って、私の顔を覗き込んだ。紫色の瞳がいつもよりも近いところにある。

「……今日のあなたは何か変ですよ」
「そ、そうかなぁ?」
「そうです。いつにも増して挙動不審だ」

 訝しげにじっとこちらを見てくる彼の視線から逃れるように、顔を背ける。いつもの自分らしくない自覚はあったから、居心地が悪かった。

「まぁ、いいですけど」

 全然納得してなさそうな顔のまま、そう言って彼はまた歩き始める。そのことに私はほっと息を吐いた。その背中が遠ざかってしまう前に私も後ろをついて歩く。
 遅れたら今度こそ本当に置いていかれてしまうかもしれない。

 暗い森では足元に注意して歩くふりをすれば沈黙も許されるような気がした。

 ――あんたはそれで良いのかい?

 ポプラさんの声が頭の中で繰り返される。

 森に入る前も、森を抜けてきたばかりと言うトレーナーに道を尋ねられて事もなげに答えていた。彼はもうすっかりこの町に馴染んでいた。
 この町に来たばかりのときは時折ちらりと彼の瞳の奥深くに不安が覗くこともあったのだけれど、最近はそれもすっかり見えなくなっている。
 それは良いことのはずなのに、何故だか私ばかりが取り残されてしまったような気がするのだ。

 ――ハッと気が付いたときには彼との距離が随分と広がってしまっていた。

「ビートくん待って……!」

 そう声を掛けても彼の足は止まらなかった。
 彼の後ろ姿がぼんやりと森の明かりに照らされてはまた再び薄暗い闇に紛れていく。無視されてもおかしくはない。私が勝手についてきているだけなのだから。
 でも、これ以上は本当に見失ってしまう。いつもはやさしく行く手を照らしてくれる光が、今日はやけに儚い。

 慌てて駆け出しても、彼との距離は縮まるどころかさらにどんどん広がっていく。

「ビートくん……」

 そう彼の名前を呼ぶ自分の声すらどこか遠くなは聞こえた。
 彼の上着のピンク色がぐにゃりと歪んで消えていく。

 手を伸ばしてもそれはどんどん先に行ってしまって届かない。伸ばした自分の手のひらも森の闇の中に飲み込まれてしまう。

 別に、彼は今までだって近い存在ではなかったはずなのに、私は何か勘違いしていたのだ。

 ビートくんとの付き合いは決して長いとは言えないし、ポプラさんがこの町に彼を連れてきた以前のことは知らないし、ビートくんの密かなお気に入りのお菓子は知っているけれどもただそれだけで、彼のことなど私には分からないことの方が多いのだ。

 そして、きっと、これからもっと私の知らないことの方が多くなっていってしまうのだろう。

 暗闇の中で、ズキリと小さく心臓が痛む。

「――何を、しているんですか」

 不意に耳元に響く聞き慣れた声。驚いて振り返ると、私が伸ばしたのとは反対の手をビートくんが握っていた。
 前を歩いていたはずの彼が何故か私の後ろにいて、走ってきたのか息も上がっている。

 彼らしくない行動に私は思わず目を丸くさせた。何度瞬きしても目の前の彼は消えない。視界の端で、森の光が淡く星のようにちかちかと瞬いている。

 そんな私とは対照的に、彼は不機嫌そうに眉を寄せた。

「本当に、少し目を離せばすぐこれだ」
「ご、ごめんね……」

 情けない。
 勝手についてきたくせに迷子になった挙句、彼に探させてしまうなんて。

 彼がアラベスクタウンに来たばかりのころは私が案内人だったのに、今迷子になりかけているのはこちらの方だ。どこからか楽しそうに笑う無邪気な声が聞こえてくる。

 頭の良い彼の中にはもうすっかり森の地図が出来上がっているのだろう。私の案内なんていらないほどに。
 きっと今日のことで彼はほとほと呆れてしまっただろう。

「腕を」

 そう言って彼が軽く腕をこちらへ差し出す。
 彼の行動の意味が分からなくてぽかんとしていると、彼はじれったそうに言葉を重ねた。

「腕を貸すと言っているんです。この薄暗い森の中、転んで大怪我されては困りますし?」

 彼の言葉の意味を理解するまでさらに数秒掛かった。
 ――つまり、この腕を取れと。

「で、出来ない……!」
「ハァ!?」

 私の言葉にビートくんが大きな声を出す。森のきのこがそれに合わせて揺れる。

「そうですか、嫌というなら無理にとは言いませんが」
「嫌とは言ってない!」

 思わずこちらも大きな声が出てしまった。
 出来ないと言っただけであって、嫌だなんて気持ちは微塵もない。
 でも、この状況で、まるでエスコートされるように自分からその腕を取るなんて出来そうになかった。

 ――距離が近すぎる。

 それに、今そんなに近付いたら何もかもバレてしまうような気がした。

「嫌なんてことは、ぜったいなくて」

 でもこれだけは絶対に弁明しておかなくてはならない。
 ほんとうに、これだけは誤解されたくない。

 彼が親切心から言っていることは分かっている。これ以上迷子になられて余計な時間を取られるのは迷惑だと思っていることもよく分かっている。
 けれども、それでも彼の他意のないやさしさをひどく嬉しく思ってしまうのだ。

「あの、せめて、手のひらでお願いします……」

 ルミナスメイズの森は暗い。きっと私の真っ赤になっている顔は見られていないはずだ。
 それなのに、どこか見透かされているような気がしてならない。ドキドキとうるさい心臓の音は彼に聞こえてしまうのではないか。こちらに向けられるビートくんの視線に、隠れたくなる。

 ぽぅっと足元にある小さなきのこが淡く光った。

「……仕方ないですね」

 はぁ、と溜息を零しながら彼が言う。その声はもうすっかりいつものビートくんだった。
 私の差し出した手に彼の手のひらが重ねられる。予想外にしっかり掴まれた手に、じわりと彼の熱が伝わってくる。

「離さないでくださいよ」

 彼が笑い声を落とすように言う。
 それはこちらの台詞なのに。

2020.01.19