好きになってしまった。ある日突然、どうしようもなく。

「ミス・、これを」
「何?」
「先ほど板書が間に合わずノートに写しきれていなかったでしょう」

突然差し出された冊子の表紙には『薬草学』の文字と『明智健一郎』という彼の名前が書かれていた。そのときの私は驚いて思わずノートと彼の顔を交互に見てしまった。

「貸してくれるの?」
「僕のノートで良ければ、どうぞ」
「ありがとう。嬉しい」

それまでまともに喋ったことなどなく、ただ東洋から来た留学生で、非常に真面目で成績が良く、ついでにこのクラスの学級委員だという、クラスメイトであるならば誰でも知っているような事柄しか彼について知らなかった。きらきらと陽に透ける髪。眼鏡の奥で細められるやさしい瞳を知らなかった。

「いえ。お役に立てたなら何よりです」

好きになってしまったのだ。どうしようもなく突然に。

 *

私はノートを抱えて教室の隅っこに立っていた。持っているノートは私のものではない。二日前にあの人から借りたものだった。本来ならば借りたその日か遅くとも翌日には返すべきなのにそのノートはまだ私の手元にあった。とっくに写し終えていたけれど私はこの二日間彼に声を掛けることが出来なかったのだ。

彼は今、エミリーやホームズ、小林くんたちと一緒に大人数の輪の中にいた。わいわいと大人数が集まっているそのグループはお喋りが盛り上がっているようだった。私はこんなギリギリまで返さなかったことを後悔していた。彼がひとりでいるときに声を掛けようとしたけれど結局勇気が出ずに断念してしまった。ならば皆がいるときならどうかと思ったのだけれど、それはそれで輪の中に入っていくのに緊張する。けれども、これ以上は先延ばしに出来ない。今日は薬草学の授業がある。

「あ、あの」

勇気を振り絞って声を出したのに、その声は震えていたし、思ったよりも弱々しいものだった。まるで自分のものじゃないみたいに。

「ん? 俺に何か用?」
「あ、違くて……」

私の声に、一番手前にいたワトソンが振り向いてしまった。『あの』では誰に用事があるのだかはっきりしないのだから仕方がない。ワトソンは悪くない。悪くないけれど、声が届いてほしい人には全く聞こえていなかったことに落胆してしまう。

「あの、えっと……、あの人に」
「あの人?」

ワトソンが首を傾げる。私がちらりとあちらに視線を向けるとワトソンもそれを辿る。そうしてようやく私が誰を指しているか気が付いたらしい。

「ああ、もしかして明智のこと?」
「そう、学級委員に用事があって」

それだけを伝えるので精一杯だった。彼の名前を呼べば一発だったのかもしれないが、私にはどうしても名前を呼ぶことが出来なかった。ドキドキと変に心臓が鳴ってしまう。

「普通に明智に用事があるって言えばいいのに。変な

ワトソンが怪訝そうな顔を向ける。私だって自分で呼べるのならとっくにそうしている。でも、呼べないのだから仕方がない。

「明智ー、が何か用あるんだってー!」
「僕に、ですか?」

彼がちょっと驚いたような表情で振り返る。目を合わせることが出来ずにすっと視線を下げて逸らす。彼のきっちり着こなした制服を見つめることしか出来なかった。

「これ……、貸してくれてありがとうございました」

そう言ってノートを差し出す。差し出した手が震えないようにするのに必死だった。言葉遣いも彼につられてか普段クラスメイトに話しかけるときよりも随分と丁寧なものになってしまった。いつもの私と違うことにワトソンなんかは気付いているだろうけれども今の私はそんなことに構っていられるような余裕はなかった。

「ああ、薬草学のノートでしたか。お役に立てたなら良かったです」

彼は私がなかなかノートを返さなかったことに腹を立てたり、気分を害しているような素振りは一切なかった。そのことに少しだけ安堵する。本当はお礼にクッキーか何かを一緒に渡そうと思ったのだけれど、もし失敗してしまったらと考えると手作りする気にはなれず、また市販のものも余計な気を遣わせてしまうかもしれないと考えて結局何も用意出来なかった。他の相手にだったらこんなことまで考えたりなんかしないのに。

「明智はいつの間にとノートの貸し借りをするほど仲良くなったんだ?」

先ほどので会話は終わり、それじゃあと席に戻ろうと思っていたのに小林くんがひょこりと私たちの間に顔を出した。小林くんの『仲良くなった』という言葉に私はまた動揺する。

「こ、これはただ、ミス・が板書が終わらず困っていたので貸したまで。これも、学級委員の務めです」

そうだ、彼はただ私が学業のことで困っていたから助けてくれただけだ。学級委員としてこのクラスを預かる責任があるから。それ以上の意味があるはずがない。

「ミス・

どきりと私の心臓は彼の声に反応して高鳴る。彼の口から紡がれた名前はいつも聞き慣れている自分のもののはずなのにまるで特別なもののように思えた。

「また、何か困ったことがあれば僕に相談してください。……これも学級委員の務めですから」
「は、はい……」

こんなまともに目もあわせられない状態では私から彼に気軽に声を掛けるなんてこと無理だと思ったけれども、彼が私にそう言ってくれたことが単純に嬉しかった。例えそれが学級委員である責任感からきたものだとしても。分かっていても私の心は勝手に期待してしまう。

「おーい、明智耳赤いぞー。もしかして照れてんのか?」
「小林! 適当なことを言うんじゃありません。僕は照れてなど……」

彼は小林くんとそんなやりとりをしていたけれども正直私はそれどころではなかった。

「あら、こっちの方がよっぽど茹でダコね」
「まぁ、本当! あなた顔が真っ赤よ? まさか熱があるんじゃ……」

マープルの声につられて、私の顔を見たエミリーが心配そうな表情で私の手を取る。きっとマープルとエミリーの言う通り私の顔は真っ赤なのだろう。言われなくても頬が熱を持っていることは分かる。「大丈夫」とエミリーの手をやんわり振りほどくと今度は私をこんなにした張本人が一歩前に出てきた。

「ミス・、熱があるのなら保健室に行った方が」
「大丈夫! ですから……」

彼の声を遮るため大きな声を出したが、途中からもとのように段々弱々しいものになってしまった。私の態度がおかしいことにきっと彼は気付いてしまっているだろう。よろよろと後ずさって距離を取ろうとする私の姿は明らかに不自然だ。彼も一層怪訝な顔をして再び一歩こちらとの距離を詰める。

「ミス・?」
「ごめんなさい!」

私は彼をドンと思いっきり突き飛ばした。彼は不意を突かれたからか少しよろめいたので私はその隙に、逃げるように教室を飛び出した。

「あらあら、これは本当に重症ね」と、もうすでに全てお見通しらしいマープルの声が後ろから聞こえた。

マープルの言う通り、私はきっと重症だ。彼を名前で呼ぶのすら恥ずかしくて出来ない。彼が私を『ミス・』と呼ぶ声さえ私にとっては特別で。普段だったら何気なく出来ていることが彼の前では出来なくなってしまう。まともに目を見て喋ることも、名前を呼ぶことも、息をすることさえも。

私は彼に恋をしてしまったのだ。

2013.03.28
4.名前で呼び合うのも照れるのに (明智) title:age
企画「ミステリア布教委員会」へ提出 か子