「おはようございまーす」

 小さな声で挨拶をしながら研究室に入ったけれど返事はない。返事が返ってくる方が稀で、特にこんな朝早い時間にはまずありえない。
 職員が出てくるにはまだ早い。泊まり込みの研究員も大抵が仮眠を取っている。紺色の空が端から赤く染まり始める時間。
 研究室の奥、彼はうつ伏せで床に転がって眠っていた。

「所長、また徹夜ですか?」

 この大天才は徹夜したという認識すらないのだろう。研究に熱中していて、時間が過ぎたことにも気付いていない。
 時間を忘れて没頭してしまうのは研究者あるあるだが、この人は頻度と長さが常人の比ではない。

「こんなことばかりしてるとそのうち倒れちゃいますよ」

 貧弱なくせに。研究者は自分の体に無頓着な人が多いけれど、この人のそれは群を抜いていると思う。自分を大切に扱ってほしいのに、この所長はいくら言ったって聞きやしない。

「ほら、今日もドーナツ持ってきましたよ〜」

 ドーナツという言葉に反応したのか、袋の中のドーナツの匂いを嗅ぎ取ったのか、彼の体が一瞬ぴくりと動く。
 けれども起き上がる気配もなくて、横を向いた顔は仮面で隠されていて相変わらず読めない。多分、ドーナツによって半分起きていて半分寝ている状態なのだろう。

「はい、あーん」

 一口サイズに割ったドーナツを口の前に持っていくと、ぱくりと彼の口が食いつく。
 ちゃんと噛んでいるのか分からないスピードで中のものを飲み込むと、またぱかりと口が開く。

「そんなにお腹空いてるならちゃんと食べればいいのに」

 どんなに声を掛けても叩いても応えず、食事を取ろうとしない彼にごはんを食べさせる最後の手段だった。

「おいしいですか?」

 問いかけても返事はない。
 朝の研究所は不思議と静かだ。収容されている吸血鬼もいるはずだけれど、研究に集中出来るようになっているのかその声もここまでは届かない。職員のオバチャンたちが来るのはもっと何時間も後。
 このときだけは、私と所長ふたりだけの時間だった。

「……今だけですからね?」

 さすがに他の所員がいる前では出来ない。そもそも所長である彼は皆からそれなりに大切にされていて、私でなくとも面倒を見てくれる人は沢山いるのだ。それに――

「かわいい」

 思わず頬もゆるむ。どこか無防備で守ってあげたくなる姿。私なんかよりもずっと高身長で偉い人のはずなのに。こんなかわいい所長を私は今独り占めしているのだ。

2021.10.11