「ユザワさん」

 私が呼ぶと、黄色い三揃えのスーツを着た彼が振り返る。彼の瞳が私を映したことを確認して、駆け寄る。思わず頬がゆるんだ。

「こんばんは、良い夜ですね」
「君も懲りないね」

 私を見下ろして彼が呆れたような顔をする。二週間前も同じようなやりとりをした気がする。

「夜の散歩です」
「こんな夜遅くに感心しないなァ」

 本当は彼に会いたくて夜の新横を徘徊しているのだ。
 たまに出会えるとこうしてお喋りをして、さらに彼の気が向けばカフェで一杯付き合ってくれることもある。

「ユザワさんに会いたくて、探していました」

 そう言うと彼は苦しそうに顔を歪ませる。もっと別の表情をしてくれるようになれば良いのにと思う。前は同じことを言っても『嬉しいねぇ』とにこにこしていたはずなのに。
 こんな表情をさせたいわけではないのに、私は彼に会うのをやめられなかった。

「ユザワさん」
「君が大切に呼ぶその名前も偽名だけどね」
「知ってます」

 ユザワというのは彼がこの新横浜で使い分ける偽名のうちのひとつだと言う。けれども“Y談おじさん”と呼びかけるわけにもいかないのでこの名前を使わせてもらっている。他の偽名もいくつか知っているけれども、私にはこれが一番口馴染みが良かった。

「あなたを呼ぶ音は何でもいいんですよ」

 私が言葉に込めた想いを、あなたはちゃんと分かって受け取ってくれているから。ちゃんと応えて振り向いてくれるから。
 だから何でもいいと思えるようになった。私が悪いのではない、彼のせいなのだ。

「……君は、面白くないね」
「ならそのステッキでピカッとやりますか?」
「やらないよ」
「私の一発芸は?」
「君のそれは本当につまらないからやめた方がいい」
「そうですか……」

 以前見せた、飲み会で大爆笑の私の鉄板ネタは彼のお気に召さなかったらしい。
 ――面白くないのなら何故一緒にいるのですか? 喉まで出かかった言葉を飲み込む。その問いは開けてはならないパンドラの箱のようなものだった。

「カフェに付き合ってくれたらもう少し楽しい話をご提供出来ますよ」
「はいはい」

 彼からしたら私とコーヒーを一杯飲む程度の時間など瞬きほどの短いものなのかもしれないけれど。

「ユザワさん、さぁ行きましょう!」

 そう言って彼の腕を取る。足の速い彼なら私から逃げることは造作もないはずなのに。大人しく腕を掴まれてカフェまで来てくれるのは、彼のやさしさだと知っている。

 振り返ると彼が眩しそうに目を細めていた。新横浜の夜はまだこれからだ。

2021.11.21