もう全てどうでも良いと思った。

「我が名は吸血鬼闇落ち!」

 目の前に現れた吸血鬼がそう名乗ったことまでは覚えている。そのあと彼が何をしたのか、どこへ行ったのかは知らない。私には関係のないことだ。
 ひたひたと新横浜の街を歩く。道行く人は誰も私のことを気に掛けない。それが心地良くもあり、ひどく腹立たしくもあった。全員どこかへいなくなってくれれば良い。消してしまいたい。消えてしまいたい。
 ――あちら側に行けば、その力が手に入る。
 ふと足元を見ると、履いていたはずのパンプスはなく、ワンピースの裾から素足が覗いていた。
 道路の向こう側は真っ暗な闇が広がっていて、私の足は自然とそちらに向かっていた。
 私のほしいものはどんなに努力しても、きっと手に入らない。あの人の心がほしいのに、人気者の彼は私のことなど気にも留めない。視界にも入らない。それなら、いっそ。

「――見つけた!」

 手を掴まれて引き止められる。驚いて振り返ると、ロナルドさんの青い瞳と目が合った。

「帰りましょう」

 彼の表情はどこか泣き出しそうで、それでいて今まで見たことのないほどやさしかった。彼の向こうで新横浜の街の明かりがちかちかと瞬いている。その明かりもどこか滲んで上手く見ることが出来ない。

「どう、して……」
「俺と、帰りましょう」

 彼の手のひらからじわじわと熱が伝わってくる。裸足で歩いても足の裏の痛みさえ感じなかったというのに、彼の触れる箇所だけが火傷しそうなほど熱を持っている。

「あ……」

 これ以上、何か喋ろうとすれば目から涙が溢れてしまいそうだと思った。熱いものが喉まで迫り上がっていて、声が出せない。それなのに、何故そんな泣きたいような気持ちがするのか分からなかった。子どもの頃、迷子になったときのように心細いけれども、どうして私はそんなふうに感じるのか。私はもう大人だし、ここはよく知った街のはずなのに。

「俺がついているから、大丈夫です」

 ロナルドさんがいうからにはそうなのだろう――。隙間風が吹くような心地のする胸の中に彼の言葉がじわりと広がる。

「帰りましょう」

 彼が私の手を引いて向かう先、彼の言う帰る場所が、単なる私の住むアパートを指しているわけではないことは何となく分かった。

    ☆

「ハッ――」

 悪い夢から覚めたかのように飛び起きる。――実際悪い夢を見ていたのだろう。あたりを見渡すと、難しい顔をしたドラルクさんとジョンくんがいた。けれどもその一人と一匹の顔も、起き上がった私を見てすぐにほっとした表情に変わる。

「ロナルドくん、よくやった! 成功だ!」

 そう言えばロナルドさんはどこにいるのだろうと、何気なく隣に視線を落とすと、その人が私の真横に寝転んでいた。あまりの近さにギョッとして後退ろうとしたが、手が固定されていて動けなかった。見るとロナルドさんが、私の手をぎゅっと握っている。えっ、これはもしかして私たち今まで手を繋いで寝ていたということ……!?

「うう、ん……」

 彼の瞼がかすかに動く。起きてしまう、繋いだ手に気付かれてしまうと思って焦るけれど、私にはそのどちらもどうにかすることは出来なかった。
 彼の睫毛が震え、空色の瞳が姿を見せる。彼はパチパチと瞬きを繰り返したあと、ガバリと起き上がると、私の方を見た。
 私はそのときにはもうすっかりパニックになっていた。ドラルクさんとジョンくんに助けを求めようと振り返ったが、いつの間にかふたりの姿は消えていた。

「あの、手……」
「あっ! これはですね、手を繋いで眠らないとあなたの夢の中に入れないからであって、決してやましい気持ちがあったわけではなくて……!!」

 手を繋いでいたことを知れば、彼はすぐにその手を離すと思っていた。けれども私の予想とは反対に、ロナルドさんは繋いだ手を持ち上げると、ぎゅっと強く握った。

「あなたを助けたかったんです」

 これは“人助け”だ。分かっているのに、私の願望が強すぎるせいか、彼の瞳が妙に熱っぽい気がした。
 夢の中に入るなんて、きっとリスクもあったはずなのに、それでも助けに来てくれたことに対して、私は何らかの意味を見い出したかったのだ。

2023.05.13