「我が名は吸血鬼求婚! 求婚シチュエーションが大好きで――」

 目の前にサラリーマン風の男性が飛び出してきて、そう名乗り始めたところまでは覚えている。けれども彼が喋り終わる前にはもう頭がボーッとしてきて、何も考えられなくなった。
 その男性に手を引かれるまま、歩いていく。途中退治人や吸対と会えれば助けてもらえるのではないかと思ったけれども、そういうときに限って出会わない。側から見れば、私たちは仲良く手を繋いで歩くカップルのように見えるのだろう。誰も私たちを気にかけたりしない。
 人気のない道に入っていったところで、いよいよ身の危険を感じた。手を振り払いたいのに、体がまるで自分のものでないかのように動かない。叫び声を上げたいのに叶わない。

「じゃあこのヴェールを被って」

 気が付くと、教会の中にいた。ここにもまた人気はない。牧師だか神父だかもいない中、白いヴェールの向こうに人影が揺れる。もしかして、結婚式の真似事でもするつもりなんだろうか。そのことに気が付いて、背筋がぞっとする。このヴェールを捲られたときにされることが分かってしまった。
 初めてをこんな形で奪われることになるなんて。

「病めるときも健やかなるときも――」
「テメェ、何してんだ!」
「ヴェーー!!」

 聞き慣れた声がしたと思ったら、目の前に立っていた人物が吹き飛ばされる。

「大丈夫ですか!?」

 ヴェールを捲り、声をかけてきたのはロナルドさんだった。私が連れ去られたことをどうやって知ったのか、助けに来てくれたらしい。
 まだ何もされていない、大丈夫だと彼に告げて安心させたかったのに、まだ声が出ない。最初よりは少しマシになってきたけれども、まだ頭の中に靄がかかったような感じがして、深く考えることも出来ない。
 ロナルドさんは私の異変にすぐ気付いてくれたのか、勢いよく吸血鬼の方へ顔を向けた。

「テメェ、早くこの催眠を解きやがれ!」
「かけるのは出来るけど、自分で解いたことはないから無理です」

 そんなぁと思ったけれど、私よりもロナルドさんの方がショックを受けた顔をする。その隣ですでに縛られた吸血鬼が、私たちふたりの顔を見比べながらニヤニヤと笑っているのが見えた。

「誓いのキスをすれば解けるさ!」
「うるせえ!」

 吸血鬼がもう一度退治人にパンチされる。懲りないひとだ。でもロナルドさんは本当に悩み込んだ表情で頭を抱えている。その顔は青く、ひどく思い詰めているように見えた。

「ほほほ本当にキ、キスするしかないのか……?」

 なんてことを! 頭の中の靄は少しずつ晴れている感じがするし、思考も早くなっている気がするから、このまま待てば催眠は解けるような気がする。素人なので、断言は出来ないけれど、この吸血鬼の催眠が一生続くような強いものには思えない。だって見た目普通のサラリーマンだし。
 そのことにロナルドさんも気付いてくれれば良いのだけど、気が動転しているのか、吸血鬼に誘導されるがままになっていた。

「でも、意識のない彼女にこんなことするのは……」
「人命救助ですよ」
「ジンメイキュウジョ……」

 騙されないでと叫びたかったが、まだ声が出ない。脳みそはもうほとんどすっきりしていて、頭の回転はいつも通りだ。あとは体が動きさえすれば……。

「すみません」

 一瞬つらそうな顔をしたあとに、ロナルドさんの顔が近付いてくる。
 先ほど吸血鬼にキスされそうになったときほどの嫌悪感はない。ロナルドさんは知り合いだし、とても良い人だし、どちらかといえば好感を抱いているし。けれども、私が良くても、ロナルドさんだってこんな不本意なキスをしなきゃいけないなんて嫌だろうし。私は嫌じゃないけど。
 なんてことをぐるぐる考えていると、ゆっくり近付いてきていたロナルドさんの顔もあと数センチのところまで迫っていた。彼の表情は緊張でガチガチに強張っている。あと、三センチ、二センチ、一センチ……。唇の端にかすかに熱が触れたような気がした。

「解けました! 催眠解けました!! ロナルドさん助けに来てくださってありがとうございました!」

 ロナルドさんの唇を手のひらで塞いで止める。その隙に横ローリングで彼との間から抜け出し、体勢を整える。突然激しい動きをしたせいで、関節が痛むような感じがするけれども、体はきちんと動く。

「さささ催眠、解けたようで良かったですね!」

 体を起こしてお礼を言うと、ロナルドさんも立ち上がって服に付いた埃を払う。その様子は普段と変わらないように見えたけれど、彼の銀色の髪の隙間から覗く耳は鮮やかな赤に染まっていた。

2023.04.23