高校生になり、私は彼の名前が呼べなくなった。それまでは『ヒデ』と呼べていたのに、なんだかその呼び方が気恥ずかしくなった。『木下』とか『木下くん』とか呼ぶのもなんだかしっくりこない。第一ヒヨシ兄ちゃんもヒマリちゃんも木下なわけだし。迷った末に『ねえ』とか『あのさ』と呼び掛けて誤魔化していたのだけれど。

「ロナルド!」

 高校のとき彼に変なあだ名がついた。急いで書いた文字がそう読めたことが由来だというが、音的には全く本名に掠っていない。でも、彼の高校の友達にはそのあだ名が定着して、皆そう呼ぶという。
 その話を聞いた私はひとしきり笑ったあと、自分もそう呼ぶことにしたのだった。それは、ふたりの関係が恋人になっても変わらなかった。

「ロナルドってば!」

 もう一度名前を呼ぶと、彼はようやく足を止めた。振り返った彼は、怒っているような、泣き出しそうな、なんだか複雑な表情をしていた。
 今までの流れで、彼を怒らせた記憶も悲しませた記憶もなかったのでびっくりして、彼の顔をまじまじと見てしまう。すると彼はぷいと顔を背けてしまう。

「そのさ、『ロナルド』ってやめねぇ?」
「えっ?」

 一瞬何を言われたのか分からなかった。けれどもすぐに先ほどの私の呼び掛けを指しているのだということに気が付いた。

「それは、呼び方が雑とかそういう……」
「ちっが……!」

 なんとなく違うとは分かっていたけれど、思い付いたことを口にしてみると、彼の方が慌てて否定する。
 けれども、その次の言葉を言いにくそうに、視線を右へ左へ逸らす。

「だから、こいびと、だからもっとちゃんと呼んでほしいっていうか……」

 そう言う彼の頬は赤く染まっている。彼の複雑なその表情が、怒っているのでも悲しんでいるのでもなく、拗ねている顔なのだと今さら気が付いた。
 私だって本当は呼び方を変えた方が良いのではないかなとは思っていた。仕事のときはハンターネームだとしても、恋人なのだから、プライベートのときは本名で呼んだ方が良いのではないか、と。
 でも、今日まで彼もロナルドと呼ばれても何とも思っていないように見えたのに。本当は、心の中ではずっとこのことを言おうと思っていたのだろうか。彼の性格なら十分ありえる。

「そうだね、こいびと、だから……」

 だから、私は昔のように彼の名前を呼んでも良いはずだ。子どものころは普通に呼べていたのに、改まると、なかなか音が出てこない。

「えっと……その……、ヒデ」
「ん」

 そう言って彼が私の手を引いて歩き出す。朝焼けに照らされる彼の後ろ姿が、あの日の夕暮れの景色に重なった。

「今日、うちに泊まってくよね?」
「おう」

 ぶっきらぼうな返事。だけれども、真っ赤に染まった耳が、それが照れからくるものだと知らせている。自分から呼んでほしいって言ったくせに。
 繋いだ彼の手は大きくて、私の手をすっぽりと隠してしまう。もう日が暮れて夜が来ても、それぞれの家に帰る必要もないのだ。

「ヒデ」

 もう一度彼の名前を呼ぶと、赤い帽子の影から覗く耳がますます赤くなった。

2022.12.28