つい数日前恋人になったばかりの彼の大きな手が私の頬に添えられた。
 ひどく整った彼の顔が眼前に迫ってくる。あと少しで唇が触れるその距離で。その尖った牙を見た瞬間、彼が吸血鬼であることを思い出した。

「あ……」

 思わず小さな声が漏れた。それを彼は聞き漏らさず、ピタリと動きを止める。
 銀もにんにくも平気な彼は、普段一緒にいて吸血鬼であることをあまり意識しないで済む。日の光さえ大丈夫だから、昼間の一緒に外に出かけることも出来る。そんな彼に対して、人間でないことをこんなに強く意識したことはこれまで一度もなかった。彼は私にいつもやさしく、にこにこと笑顔を見せてくれていたから。
 間近で見る彼の瞳は、まるでこの世のものとは思えないほど美しい赤をしていた。

「怖がらないで」

 そう言って彼が私の頬を撫でる。もう片方の手を私の頭の後ろに回して、宥めるように撫でる。
 眉を下げ、赤い瞳を潤ませた彼は、私なんかよりずっと怯えているように見えた。その表情を見たらふっと体の力が抜けてしまった。

「吸血鬼って畏怖られたいものじゃないんですか? ついに畏怖欲までなくしてしまったんですか?」

 そうだとしたら、いよいよ吸血鬼らしくない。『怖がらないで』なんて言う吸血鬼は初めて見た。そもそも彼は死んで蘇ることで畏怖い吸血鬼になるのだと言ってこの新横浜に来たのではなかったのか。
 初めて彼の姿を目にしたあの大侵攻の夜と、今私の目の前にいる彼とでは確かに大分雰囲気が変わったとは思うけれど。
 揶揄うように小さく笑えば、彼は一瞬不貞腐れたように頬を膨らませたあと、すぐ真剣な表情に戻ってまっすぐに私を見つめた。少し動いたら鼻が触れ合ってしまいそうな距離だった。

「あんたには畏怖られるより、受け入れられたい」

 そう言って彼がやわらかく目を細める。その言葉に、表情に、胸がキュンと切なく痛む。きっと、彼がこんなふうに言う相手は、世界中で私ひとりだけだと思うから。

「なぁ、キス、していいか?」

 一番初めにもした質問を彼が繰り返す。その問いに私は確かに頷いて彼は顔を寄せたのではなかったか。
 私がもう一度頷くと、彼が目を伏せる。それを合図に私もそっと瞼を閉じた。すぐに唇が合わさる。擦り合わされて吐息が熱を持ってきたところで、ぺろりと唇を舐められる。

「ん」

 驚いて思わず声を上げると、彼がふと満足そうに笑う声が聞こえた。

2022.08.09