本当はちゃんとチョコレートを渡そうと思っていたのだ。そのとき告白するかどうかは別として。でもある程度の覚悟を持って私は事務所のドアを叩いたはずだった。
それなのに今目の前に広がる光景に、その覚悟が砕けていくのが分かった。
「あ、これですか? 実はオータム書店から送られてきて。ロナ戦のファンがわざわざ編集部に送ってくれたみたいなんですよ〜」
そう言って振り返ったロナルドさんはへらりと笑った。
事務所の床にはダンボールが何箱も置かれている。ダンボール単位でチョコをもらう人を初めて見た。小学校の頃、学校一モテる男の子が手提げ袋いっぱいにチョコをもらっているところを見たことがあるが、それとは比べ物にならない。
「すごいですね」
その集まったパワーに気圧されてしまったのかもしれない。その数は彼が世間の人気者であることを私が実感するには十分で。自分の用意したものも彼が沢山もらったチョコレートの百分の一とかになってしまうんだろうなと思ったら、渡す勇気が急激に萎んでいってしまった。
「去年よりすごい増えてるから俺もびっくりして。そうだ、事務所に来てくれたってことは何か用事があったんですよね?」
「いや、お忙しいみたいなんで出直します! それじゃあ!」
「えっ、待って――」
彼の静止は聞かなかった。
*
こんなに惨めなバレンタインは初めてだった。
どうやって自分の家まで帰ってきたのかもよく覚えていない。
そもそもチョコレートなんか用意しなければ良かった。それかただの普段のお礼だと自分に言い聞かせて勢いで渡してしまえば良かったのだ。そもそもファンと張り合おうという方が無意味だ。
でも今さら戻っても、どんな顔をして渡したらいいのか分からない。こうなってしまった今となっては、なかったことにして、自分で食べてしまうのが一番良いのかもしれない。
「ひどいバレンタインデーだったな……」
今さら後悔したって遅い。これは臆病になって自分の気持ちを大切にしなかった罰だ。
自嘲するように薄く笑って、鍵を取り出すために鞄の中を探る。金属の冷たさが指先に触れた、そのときだった。
「――待って」
後ろから、声とともに手首を掴まれた。振り返ると、先ほどまで思い描いていた人物が息を切らした様子で立っていた。
「ロナルドさん!?」
何故私の家の前に? 追いかけて来てくれた? でも何で?
沢山の疑問が浮かんでは、言葉にならないまま消えていく。ぐっと喉が熱く詰まって、口を開いたら余計なものまで零れてしまいそうだった。
「それは?」
彼はそう言って私の手に持っている紙袋に視線を落とす。事務所を訪ねたときから持っている、チョコレートの入った紙袋だ。渡せずに持って帰ってきてしまった惨めな袋を見られたくなくて、私は思わず体の後ろに隠した。
「もしかして、誰かに渡す予定だったやつ?」
なんで、あなたがそんなこと聞くんですか。“誰かに”なんて、彼にだけは聞かれたくなかった。
「そ、う、なんですけど、持って帰ってきちゃったから自分で食べようかな〜って」
へらりと笑いながら答える。この状況にしては上手く答えられたと思う。いつも通り、笑いながら、お気楽な感じで。
それなのに、視線を上げるとロナルドさんの青い瞳がまっすぐに強くこちらを見つめているから、また息が出来なくなった。
「それなら俺がもらってもいいですよね?」
手首を掴まれる。その手のひらがひどく熱かった。びくりと思わず引きそうになる腕を強い力で繋ぎ止められる。ぎゅっと握られた手首は、痛くはないけれど振り解けない。
「ほしい」
「なん、で……」
なんで私なんかのチョコレートがほしいんですか。これが元々自分のために用意されたものだと、彼は分かっているのだろうか。私があなたにどういう感情を抱いているか――
「今日事務所に来たときからなんか泣きそうな顔してたなって気が付いて。あと、その綺麗な紙袋も」
そんな顔をした覚えはなかったのだけれど。それにあのとき彼が気付いていたことにも驚いた。私が事務所にいたのはほんの数分で、そんな短い時間で気付くはずがないと思っていた。
彼の勢いに押され、手に持った紙袋を差し出す。彼がそれを受け取って中身を取り出すのをまるで白昼夢でも見ているかのような心地で見ていた。
「……」
無言のまま彼は丁寧にラッピングを開けて、一粒摘んで持ち上げたそれを少し眺めたあと、そっと口に運んだ。その様子が私にチョコをもらってもいいかと尋ねてきた勢いとあまりにも違っていて。
「うん、うまい」
そう言って彼が笑う。もう気持ちが溢れ出てしまいそうなのに、言葉は喉に詰まってなかなか出てこなかった。
2022.02.01