これは、きっとしあわせな夢だ。
気が付くとロナルドさんの部屋のソファに座っていて、隣にロナルドさんがいた。
「ん? どうした?」
聞いたこともないほど甘くやさしい声で彼が私に尋ねて肩を抱く。
その声と手つきに驚いて私は思わず彼の顔を見上げた。彼の青い瞳がひどく近い位置でこちらを見つめ返してくる。
「ロナルドさん、退治はどうしたんですか!? 吸血鬼が、出た、って……」
そうだ、私が遊びに来てしばらくすると彼のスマホに吸血鬼が街に出たと連絡が入り、ロナルドさんは退治に出掛けて行ったはずで。でもその先は頭がぼんやりして思い出せない。
「そんなの、どうでもいいだろ? 俺はあんたと一緒にいる方が大事だ」
そう言ってロナルドさんが私の頭をやさしく撫でて、抱きしめる。彼の触れた箇所が心地良くて目を閉じたくなる。このまま彼の腕の中で眠ってしまえたらどれだけ楽だろう。
――それなのに、何故か胸が痛い。
「なぁ、――」
彼の呼び掛けにほぼ反射のように顔を上げると、頬に手が添えられる。私以外映らない彼の瞳は甘くどろどろに溶けきっていた。
彼の腕の中で夜を迎えて、朝が来る。同じ繰り返し。邪魔するものは何もない。世界でたったふたりきり。
だから、これはきっと悪夢だ。
「――さん!」
遠くから、私を呼ぶ声がする。
ハッとして振り向くと、必死な顔をしたロナルドさんがこちらへ駆けてくるのが見えた。私の顔を見て一度泣き出しそうに顔を歪めて、それからキッと強い視線でこちらをまっすぐに見て駆けてくる。
あんなに遠くにいた彼が、一息で私の元へ辿り着く。
「助けに来ました! 大丈夫ですか!?」
「……はいっ!」
ロナルドさんが私の手を掴んで引き寄せる。そうして私を庇うように背中に隠した。
本物の、ロナルドさんだ。何故だか分からないけれど、直感でそう思った。
では、先ほどまで私を抱きしめていた“彼”は。
「てめぇ、彼女に何した――って俺!?」
彼が対峙したロナルドさんの形をしたソレは、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべたあと、輪郭が溶けて大きくなり、やがて黒い影になった。
それと同時に事務所の風景も溶けて、辺りが暗い荒野に変わっていく。
やっぱりこれは現実ではなかったのだ。でも、限りなく現実に近い夢。
影がゆっくりと辺りを包むように近づいてくる。
「こ、のヤロ!」
ドン、ドンと銃声が鳴る。弾丸は命中し、影が動きを止めた。やっつけたのかと息を吐いたのも束の間。
「走るぞ!」
そう叫ぶとロナルドさんが私の手を引いて走り出す。走って、走って、走りながらちらりと後ろを振り返ると、影がぐにゃぐにゃと動いてまたひとつの形に戻ろうとしていた。彼の弾丸で仕留められない――
「何なんですか、アレ!? どうやったら倒せるんですか!?」
「分かんねー、けど!」
「分かんないって……。それならどうして……!」
どうして飛び込んできてしまったんですか。そんな危険なところへ。死んでしまうかもしれないのに。
「あんたひとりにさせられないだろ」
彼のその言葉に思わず目を見開く。
「絶対俺が守るから」
そう言ってロナルドさんが振り返り、まっすぐな瞳で私を見る。
彼が夢に飛び込んで来た理由なんてひとつしかないと分かっていたはずなのに。それなのに当たり前のように投げかけられた言葉に驚いて、ぎゅうと胸が切なくなる。
『コオオ――』
強い風が吹くような音。ひたひたと影が追いかけてくる気配がする。
息が苦しい。足がもつれて転ぶと思うたびに彼の手がぎゅっと握って引き上げてくれる。彼の手のぬくもりが安心させてくれる。彼が手を引いてくれる限り走れる、と思う。
突如、ロナルドさんが駆ける足を止め、ギュイと振り返って影に対峙する。彼のリボルバーの銃口がぴたりと狙いを定める。
黒い影の後ろでチカと光が差し込んだ。
「――っ!」
彼が再び影に弾丸を打ち込む。彼の放った弾丸はまっすぐ進み、影の真ん中に当たった。
ぐにゃりと影が苦しそうに歪む。グオオとこの世のものとは思えない叫び声が辺りに満ちる。
向こうに見える光は徐々に大きく広がっていく。
「こっち!」
「ロナルドさん!」
彼の大きな手が私の手を掴んだ瞬間、ガラガラと足元が崩れていった――
*
「目が覚めたようだね」
「ヌー!」
そう言って、私を覗き込んでいた吸血鬼とアルマジロが退く。ぱちりと瞬きをすると、新横浜のビルの明かりと、まんまるの月が見えた。
一拍遅れて、閉じ込められていた夢から覚めたのだと理解した。
「わたし……ろ、ロナルドさんは!?」
「あっち。彼もそろそろ目が覚めるんじゃないかな? まったくゴリラは後先考えずに行動するから毎回ひやひやさせられる」
ドラルクさんの示す方を見ると、私の隣で地面に寝かせられたロナルドさんが今まさに「うーん」と体を起こすところだった。
彼の手は私の手を握っていた。
「ロナルドさん!」
思わず彼に抱きつく。今さら恐怖を思い出したのか、膝から力が抜けてしまった。
起き抜けに抱きつかれた彼は「うおっ!?」と声を上げて、これから私の背中に腕を回して抱き止めてくれた。
彼の胸からはちゃんと心臓の音が聞こえるし、触れた箇所はちゃんとあたたかかった。そのことにほっとした。
「怖い思いさせて、すみませんでした」
あやすように私の頭を撫でながら、彼がひどくやさしい声で言う。
ロナルドさんのせいじゃない。あなたが来てくれてからはちっとも怖くなかった。
「いえ……。助けに来てくれて、ありがとうございました」
きっと今の私の顔はぐちゃぐちゃだ。目の端に浮かんだ涙をロナルドさんの指先が拭い取る。
心の奥から湧き上がるもので胸がいっぱいになる。頬に添えられた手に顔を上げると、春の空のような瞳がこちらを見つめていた。
2021.12.09