その日のギルドは珍しく平和だった。少なくとも私の中では、退治人仲間の彼がその一言を発するまでは。

「ロナルドのやつ最近彼女出来たからって調子乗ってるよな」

 その言葉に私は持っていたグラスを取り落としそうになった。

「……そう、なんですか?」
「まぁ、多少な! 浮かれてるんだろ」

 そう言ってショットさんがジョッキに入ったメロンソーダを煽る。私が聞いていたのが予想外だったのか一瞬気まずそうな表情をしたけれども、それもすぐに消えた。

 ロナルドさんが想いを寄せる女性の存在は知っていた。最近ちょっといい感じなのだとも。
 けれどもそれ以降進展したという話も聞かないし、まだ膠着状態なのではないかと勝手に思っていた。――まだ、ほんの一パーセントくらいは私にも望みがあるのではないかと思っていたのだ。
 急に冷たい海に突き落とされたような気持ちになった。

「ロナルドさん彼女出来たんですね……」
「は?」

 後ろから聞こえてきたのは噂の本人の声。振り向けばロナルドさんが目を丸くさせ、こちらを凝視していた。
 もしかして聞いてはいけない話だったのだろうか。彼女が出来たことは内緒にしたかったとか? でも私だって退治人仲間だし、少し協力した仲なのだから一言くらい報告してくれたって良いとは思う。私がそれを聞きたかったかどうかは別として。

「それ、マジで言ってんの?」

 いつもより低い声。何か怒らせてしまったのだろうかと慌てて立ち上がり口を開こうとしたそのとき――

「吸血鬼だーッ!」

 外から聞こえてきた声にギルドにいた退治人全員がピタリと反応する。

 懐の武器に手を掛け、ギルドの外へ飛び出る。

 そこには逃げ惑う人々の姿と、巨大な下等吸血鬼の姿があった。大きいが一匹だけだ。今日のギルドに待機していた退治人の数を考えるとこちらの戦力は十分だった。

 新横浜ではさほど珍しくない景色。

「市民の皆さんはこっちへ!」

 数人が前線へ出たのを確認してから逃げ惑う一般市民を誘導する。転んだ女性に手を貸し、子どもの手を引いて母親に引き渡す。
 振り返ると、思ったより近くに下等吸血鬼が迫っていた。ピッと、それが吐いた何かが左腕を掠める。

「――ッ!」

 ドン、ドンと銃声が鳴る。見るとロナルドさんが銃を構えていて、その先には銃弾が額に撃ち込まれた吸血鬼が倒れていた。

「大丈夫か!?」

 あまりにも鮮やかな退治に思わず呆然としていると、ロナルドさんがこちらに駆け寄ってくる。無事吸血鬼を退治したというのに何故かその表情は必死で。

「怪我は!?」
「ないです」
「病院……いやVRCか!?」
「だから大丈夫ですってば!」

 私の左腕の傷を見つけて彼の声色がますます焦りを含んだものになる。落ち着けば私の怪我なんてただの擦り傷だと分かるはずなのに、彼はすっかり冷静さを失っているようだった。

 宥めようと右手を伸ばしたはずだったのに、逆に掴まれ引き寄せられた。

「とりあえず俺の家行くぞ」
「ひゃっ!」

 ひょいっと。膝裏に手を回されたかと思えば、そのまま持ち上げられてしまった。ロナルドさんに抱きかかえられていることが信じられなくて、頭が真っ白になる。彼が歩き始めると揺れて、思わず彼の首にしがみついてしまった。

 その様子を見た退治人仲間たちがヒューと口笛を吹いて囃し立てるので余計に恥ずかしかったが、誰もこの状況を助けてくれる気配はない。

「そうだ。しっかり掴まってな」

 重いんじゃないかとか、こんなに近くにロナルドさんの顔がとか、彼の鍛えられた胸筋がとか、色んなことが頭の中を駆け巡る。それなのにその考えたちは全く形にならなくて、ただハクハクと空気だけが口から漏れる。

 新横浜の夜の風が頬を撫でる。

 通行人からも見られている気がして、顔を両手で覆いたい気持ちだったけれど、彼にしがみついているからそれも出来ない。
 代わりにぎゅっときつく目を瞑って、病院でもVRCでもロナルド吸血鬼退治事務所でも何でもいいから早く着いてくれと祈ることしか出来なかった。

 下等吸血鬼が相手の、本当にいつも通りの退治だったはずなのに。


「着いたぜ」

 固く閉じていた瞳を恐る恐る開けると、ロナルド吸血鬼退治事務所の文字。ゆっくりと降ろされて、数分ぶりに地面に立つ。くらりと目眩に似た感覚がしたのは、きっと急に立ったからだけではないはずだ。

 そっとロナルドさんに手を引かれて事務所に入る。当然ながら無人の事務所は暗くて、どこか知らない場所のように思えた。ぱちりという音とともに電気がついていつもの風景が目に映る。ただ、いつもよりずっと静かだった。

「怪我、見せて」
「えっ、でも……」

 先ほど吸血鬼の攻撃が当たった箇所は本当に擦り傷だ。それに肩のあたりに当たったから少し服を捲ってハイおしまいというわけにはいかない。服を脱ぐ必要がある。いくら片想いの相手とはいえ、男性相手にそれは躊躇する。

「見せて」

 有無を言わせない言い方。
 これは怪我を診るためであって治療なのだと自分に言い聞かせる。それに中にキャミソールも着ているし、直接下着を見せるわけでもない。
 ドキドキとうるさい心臓を押さえつけながら覚悟を決め、服の裾を捲って袖から左腕を引き抜く。首に服がわだかまって間抜けな感じだけれども仕方がない。

「ほら、何ともないです」

 ひらひらと左手を振ってみたけれどもロナルドさんの表情は険しいままで。
 不意に彼の指先が私の腕に触れる。そっと壊れ物を持つかのようなやさしい触れ方に、肌が粟立つ。

「手当てする」

 これ以上彼に触れられたらどうにかなってしまうと思った。

「自分で出来ますから……!」
「俺がやる」

 今日の彼は頑なだ。退治人のくせにあの程度の攻撃を避けきれなかった負い目もある。促されるままにソファーに座った。
 棚から救急箱を取ってきたロナルドさんが手袋を外しながら再び私の前に立つ。彼の影が蛍光灯の明かりを隠す。

「う……」

 彼の指先がやさしく丁寧に軟膏を塗り込んでいく。傷に響かないように気を遣っているのか随分とゆっくりとした動きだった。添えられた左手から彼の体温が移る。

「痛くないか?」
「痛くないです」

 当たり前だ。ただの擦り傷なのだから。退治人をやっていればこの程度の怪我は日常茶飯事で、怪我のうちにも入らないだろう。これほどまで丁寧に手当てしたのは初めてだった。

「ロナルドさん?」

 軟膏を塗る指が止まって、やっと手当てが終わったのかと伏せていた顔を上げると――一瞬で目の前が黒に染まる。
 背中に触れる体温と、ほんの少しの汗の匂い。

 ロナルドさんに抱きしめられていた。

 ひゅっと息を吸ったまま、呼吸が止まってしまうかと思った。

「ろ、ロナルドさん……!」
「安心した……」

 剥き出しの肩に彼の髪と息とが当たってくすぐったい。身を捩るとさらにきつく抱き込まれて動けなくなる。

 彼がこんなふうになるところを初めて見た。時折見せる困った顔とも違う。心底弱り切ったような声。退治人ロナルドとはまったく違う――私が彼にそんな表情をさせているのだと思うと、たまらない気持ちになる。

「大げさですよ」
「そりゃ、カ……カノジョが怪我したら心配するだろ。普通」

 ――信じられない言葉が聞こえたような気がした。

「彼女……って、えっ? 私?」
「他に誰がいるんだよ」

 確かにこの場で怪我をしているのは私だけだ。
 じと目でこちらを見るロナルドさんの顔が、私の表情を見て段々青ざめていく。「まさか……」と小さく呟いた声はひどく狼狽しているようだった。

「えっ……。もしかして、恋人になったつもりでいたの俺だけ……?」
「あの……もしかして、そうなんじゃないかな〜とは……」
「『もしかして』? 『そうなんじゃないかなぁ』!?」

 思い返してみると、思い当たる節がないわけではなかった。
 絶対にいつでもほんのこれっぽちも期待してしなかったとは言わない。彼の私に向ける視線が恋慕のものだったら良いのにと思わなかった日はない。けれども、私は期待して突き落とされるのを怖がって、幾重にも予防線を張っていた。
 私はロナルドさんの好みの女性像とはかけ離れているし、妹のような存在と思われているようだったし、それに、それに彼には――

「でもでも! ロナルドさんといい感じになってるっていうロナルドさんの好きな女の子は?」
「アナタですけど!?」

 バッと顔を上げたロナルドさんと目が合う。その勢いとは対照的に私の肩を掴む手はやさしい。彼が私に触れるときはいつもそうだった。

 真剣な色の瞳がじっとこちらを見つめている。

 ふたりきりの部屋は、お互いの息遣いも聞こえてきそうなほど静かで。ロナルドさんの銀の髪が明かりに透けてきらきらと光っていた。

「俺、誰にでもそういうこと言わないし、しないから」

 知っている。派手な見た目に反して、彼がひどく誠実な青年であることを、私が一番よく知っている。彼のやさしさに惹かれたのだから、知らないはずはなかったのに。

 彼が私の手を取る。私よりもずっと大きな手に包まれて、ドキリと心臓が大きく鳴る。

「もしかして大切にしてるの、伝わってなかった?」

 ブンブンと頭を横に振る。私を横抱きにして抱え上げるのも、私の手を引くのも、私の腕に触れた指先も――ちゃんと伝えてくれていた。

 彼の右手が私の髪を撫で、頬に触れる。触れられた箇所から広がる甘さに、くらくらと目眩がする。

「そっちも、俺のこと特別だと思ってくれてると思ってたけど」

 「違った?」と彼が眦を下げて言う。そのやわらかい声色は、私がこれから口にする言葉をすでに知っているようだった。
 彼の青い瞳の中に、私だけが映っていた。

「違わないです」

 私が掠れる声で答えると彼が目を細める。
 ――今このときは伝わりすぎているくらいだ。彼が何を考えているか、その瞳が、指先が、語っている。

「よかった」

 彼はとろけるような甘い声で言うと、その手のひらを私の背中に回して、触れた。

2021.10.19