私はノースディン様のお屋敷でメイドとして働いている。

「また君は皿を割ったのか」
「ももも申し訳――っ!」

 ガシャーンと、静かな夜のお屋敷中に響くような音だった。手に持った皿がつるりと滑ったかと思うと、床に向けて真っ逆さま。あれだけ大きな音がしたのだから、ご自分の部屋でお仕事をされていたはずの主人がすっ飛んできてもおかしくはない。今度はどんな貴重なものを壊したのかとお怒りになってもおかしくはない。

「割ったのは一枚だけか?」
「はい……。でも揃いの食器だったのに……」

 割れたのは一枚だけだが、揃いの食器が欠けてしまったのだから五枚駄目にしてしまったのと変わらない。私がこのお屋敷で働き始めてから割った皿はこれだけではない。これまでに何枚も高そうな食器を駄目にしている。

「……夜に仕事をするのはやめたらどうだ? 明かりが少ないから手元も狂う」
「でも、ノースディン様は夜型なので」

 私のご主人様は吸血鬼だ。日が沈んでから活動する。きちんとメイドとしての職務を果たそうと思ったら、なるべく同じ時間に活動した方がいいに決まってる。とはいえ、このお屋敷に使用人は私しかいない。陽のあるうちは外に出れない彼に代わって、私が昼の使いに出ることもあるから、完璧に同じにはならないのだけれど。

「これからはもっと注意します。本当にすみませんでした」

 改めて頭を下げてから、しゃがみ込んで破片を拾う。ここには私しか使用人がいないのだから、私がやらなければ片付かない。
 粉々に散ったお皿の破片を拾おうと手を伸ばすと、ノースディン様が私の隣でしゃがみ込んで、その手を掴んで止めた。

「素手では危ないよ」

 まだ気が動転していたらしい。先に塵取りや箒を持ってくるべきだった。素手で拾い上げた破片をどうするつもりだったのだろう。きっとノースディン様も呆れたに違いない。
 私の手首を掴む手がひんやりと冷たい。

「ここは私が片付けておくから、君は他の仕事を進めなさい。玄関ホールの掃除もまだだろう」
「でも、ノースディン様にそんなことをさせるわけには……」

 彼が同僚だったのなら、そのやさしさに甘えることも出来たかもしれないけれど、彼は私の主人だ。じゃあお願いしますなんて、言えるわけがない。

「君が来る前はこの屋敷に私ひとりだったんだ。問題ない」

 この広いお屋敷に使用人は私ひとりだけ。その前に使用人がいたことはないらしい。身の回りのことは彼ひとりでやっていたのだから、本当はぽんこつメイドがひとりいなくても彼は困らないのだろう。

「ノースディン様はお優しすぎます」
「そんなことを言うのは君くらいだ」

 そんなことはない。この屋敷にふたりきりということもあるのだろうが、彼は私に優しすぎる。私を気に掛けすぎる。だから、私はついそれに甘えたくなってしまうのだ。

「あの」

 私が呼びかけると、彼は視線を上げる。窓から差し込む月明かりが彼の顔を照らしていた。

「あの、そのお皿のかけら、ひとつもらえませんか? 綺麗な柄で、お気に入りだったので」
「駄目だ」
「……そう、ですよね」

 割れたお皿がここで役目を終えてしまうのが忍びなくて、思わず願いを口に出してしまった。割ってしまったのは自分のくせに。何かをもらえるような立場ではないくせに。

「君にそんなものを与えたら、手に取って眺めているうちに、うっかり指先を切るに決まっている。また今度、君の気に入る柄のお皿を買ってあげよう」

 そうじゃない。私が望んでいることはそうじゃないのに。けれども、それを言えば彼は私の望みを何でも叶えてしまいそうだったから言えなかった。
 彼が与えるべきは、出来の悪いメイドに対する罰のはずなのに。

「ノースディン様は私を甘やかしすぎです」

 何かを堪えるように眉間に力を入れて、そう言えば、彼はまた口元をゆるめ微笑んだ。「ノースディン様のばか」私のメイドにあるまじき暴言は、静かな夜に溶けて消えた。

2022.08.02