「辻田さん、撫でさせてください!」
「ダメだ!」

 この数十分で、もう何回このやりとりを繰り返しただろう。私が一歩近付けば、彼はじりと一歩後退りする。

「辻田さん、今日はお風呂入ったって言ってたじゃないですか!」

 ヘルパシとかいうもののお手伝いに行った先で風呂に押し込められたのだという。おかげで彼の髪はいつになくふわっふわで、ついでに良い匂いなんかもしちゃっている。そんないつもとは違う彼を撫でてみたいと思うのは自然な感情ではないのか。彼に触れる最大のチャンスを棒に振る人間がどこにいる。
 じり、じりと彼との距離を詰める。近付いていることに気付かれないように、警戒されないように、慎重に。

「私の分の今川焼きもあげますから!」

 辻田さんが今川焼きが好きだと言うから、単純な私はすぐに次の手土産として用意した。彼は私から渡されたその箱を開けた瞬間、目を輝かせ、そのあとも上機嫌で今川焼きを二個も平らげた。交渉の材料にしなくとも、彼がそんなに今川焼き好きならば、私の分も彼にあげるつもりではあったけれど。
 正直、すっぱり切られると思っていたのに。彼は私の言葉を聞いて、ぐっと言葉を詰まらせた。

「……好きにしろ」

 彼は眉間に深いしわを刻みながら唇の間から絞り出すように言った。『えっ、いいんですか?』と言いそうになる唇を私は慌てて引き結んだ。そんなふうに尋ねたら、彼は許可を引っ込めてしまいそうな気がしたから。

「えっと、その……では、失礼して」

 彼はベッドの上に座って、律儀に頭をこちらに差し出してくれた。彼のこういうところが好きだなと思う。
 お風呂に入りたての髪は、いつもよりふわふわつやつやだ。彼のつむじまでよく見えた。そっと彼の頭に手を乗せる。くしゃりと彼の髪が乱れた。

「……何か言え」
「犬」

 犬みたいな撫で心地だということを言おうとしたのに、私が続きを音にする前に彼の声が被さる。

「誰が犬だ!」
「じゃあ猫」
「そういう問題じゃない!!」

 辻田さんは難しい。動物に例えられるのが嫌だったのだろうかと思って「嘘です、ひとの撫で心地です」と言い直すと、彼は押し黙ってしまった。
 くしゃり、くしゃりと、彼の髪が私の指先に絡まる。梳くように撫でると彼の長い髪がするりと落ちた。辻田さんは背も高くてちゃんと男の人なのに、私に大人しく撫でられている今だけは何だか小さな子どものように思えた。

「もう十分だろ」

 夢中で撫でていると、不意に彼の掠れた声が聞こえた。彼が顔を上げ、私の手を軽く払う。

「まだです! まだ私は満足してないです!」
「満足しろ!」

 彼が私の右手首を掴んで押さえるので、今度は左手を伸ばす。背中を反らして逃げようとしていた辻田さんだったけれど、私が必死で手を伸ばして再びその髪に触れると、諦めたように姿勢を戻してくれた。

「よーしよし」
「気色悪い声を出すな」

 辻田さんは注文が多い。私の右手はいまだ彼に掴まれたままだったけれど、そこから伝わる体温が心地良い。彼の体温はどこか安心する。
 彼の髪をもう一度かき混ぜるとシャンプーのシトラスの香りがふわりと鼻をくすぐった。

「ふふ」

 思わず笑い声が漏れた。また彼に怒られてしまうかなと思ったけれど、意外にも彼はそのあと何も言わないままで。それを良いことに、私も彼の隣に座り、月が傾くまで彼の頭を撫で続けていた。

2022.04.03