「今日のおやつはバターサンド〜ふんふ〜ん」
昨日駅に都内の有名洋菓子屋が期間限定で出店していたのだ。帰りにお店が出ていることに気が付き、覗いてみると、一番人気らしいバターサンドが最後の一個だけ残っていた。なんてツイているのだろう。――そういうわけで私は昨晩から今日のおやつのことを考えてはご機嫌だった。鼻歌だって歌ってしまう。
「ぶっ」
バターサンドのことばかり考えていて、あまり前を見ていなかったせいか。カフェオレを買いに行こうと部屋を出てすぐのところで大きな何かにぶつかった。
「随分ご機嫌だな」
「か、カズサ本部長……!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、神奈川県警吸血鬼対策本部長の姿があった。彼の胸に思い切りぶつけてしまった鼻を押さえていると、彼の方から「ぶつかって悪かったな」と謝ってくれる。私は慌てて、こちらからも謝った。完全に前をよく見ていなかった私が悪いというのに、それを許してくれる彼は本当に懐が深い。権力を笠に着て偉ぶったりもしない。――密かに彼に憧れていた私は、本部長と話せたことに内心ガッツポーズをしていた。
「え、でもどうして本部長がここに? 今日いらっしゃる予定の日でしたか?」
「いや、予定はなかったな。たまたま近くに寄ったから抜き打ち視察だ」
そう言って彼がニッと笑う。本当は別の用事があるのだろう。廊下で簡単に、しかも一隊員にすぎない自分に言える内容ではないことを察して頷く。
吸血鬼対策課のドアを開けて彼を招き入れながら、伝えづらいことを言う。
「あの、ヒヨシ隊長は今出ていて……。一時間ほどお待ちいただければ、帰ってくると思うのですが」
「それでは少し待たせてもらおう」
中に入ると、ヒヨシ隊長だけでなく、他の面子も出払っていた。署内にはいるはずだからすぐに戻ってくるとは思うが、予想外に彼とふたりっきりになってしまったことにドキドキと心臓が鳴る。それは偉い人を相手する緊張だけではなかった。
「お茶、今用意します!」
一生のうちで一番丁寧にお茶を淹れる。いつものお茶っ葉で、いつもと同じ手順では味は変わらないことは分かっていたが、こういうのは気持ちだ。おもてなしの気持ちを込めればおいしくなるかもしれない可能性に賭けた。
本部長用の特別な湯呑みなんかないので、いつもの来客用の湯呑みにゆっくりお茶を注いでいく。手が震えて溢してしまわなかったのは奇跡だと思う。
そうして気持ちだけは沢山込めて淹れたお茶を彼の前に出す。
「……あの、このお菓子良かったら召し上がってください!」
手に持っている特別なバターサンドを彼に差し出す。お茶請けには最適だろう。偶然持っていたことに感謝だ。
「いただこう」
キリッとした横顔が格好良い。世界一格好良い。
「良かったら君も一緒にどうだ? 俺と一緒では緊張させてしまうかな?」
「えっ、あの……!」
突然のお誘いに脳みその処理が追いつかなかった。聞き間違えではないだろうか。それとも私の幻聴? 色々疑ってみたが、彼が隣の椅子を引くのを見て、聞き間違えでも幻聴でもなかったことが分かった。
「い、いいんですか?」
「元はといえば君の菓子だ。食べるのを楽しみにしていたんじゃないのか? 大切そうに持っていた」
バレていたことに恥ずかしく思うとともに、彼がちゃんと私を見ていてくれたことに喜びを覚える。こういう細かいことに気付くところが好きだなと思う。
本来なら同席する機会なんてないはずなのだけれど、ヒヨシ隊長が戻ってくるまでの間、彼の相手をするのが私の今の仕事だろう。うきうきと弾む心を抑えながら彼の隣に座る。
「これ、昨日新横浜駅に期間限定のお店が出ていたんですよ。おいしそうだったのでつい買っちゃって」
「そんな大切なお菓子を俺が食べてしまっていいのかな?」
「カズサ本部長と一緒に食べられるなんて一生分の幸せですっ!」
言ってしまってから、言葉選びを間違えたことに気付いた。
「あ、いや、これは、光栄ですと言おうとして……」
カズサ本部長がじっと真顔でこちらを見つめてくる。何も言われないのが逆に怖かった。
『一生分の幸せ』なんて言ってしまって、私の気持ちに気付かれてしまっただろうかと、顔が熱くなる。きっと本部長ほどのエリートならこうして好意を持たれることに慣れているのだろうけれど。
カズサ本部長の好みは冷静で仕事の出来る美女だと聞いたことがある。伝聞なのでどこまで本当なのか、それとも実際にそういう彼女がいるのか真実は分からない。冷静でもなければ、有能エリートでもない、ついでに美女でもない私が、そういう意味で本部長の視界に入ることはないことは分かっている。
居た堪れなくなって、逃げるように手に持ったお菓子を口に運ぶ。
「わ、おいしいっ!」
馬鹿みたいに思ったことがそのまんま口に出てしまった。
「んんん゛!」
聞こえてきた何かを押し殺すような声に顔を上げると、本部長が厳しい顔をしていた。何かしてしまっただろうかと、肩を縮こませる。嫌われたくない。あまりにも子どもっぽい言動だったので、呆れられたのかもしれない。
「あの、本当おいしいので本部長もぜひ召し上がってください……」
そう言って彼の方にバターサンドを差し出すと、彼はじっとこちらを見つめてくる。
「そんなに好きなのか?」
「はい、好きです!」
「ん゛!」
また彼が厳しい表情をする。真剣な表情とも取れるかもしれない。感情が読み取れなくて困っていると、彼と目が合う。彼がひとつ咳払いをする。
「いや、何でもない」
そう言ってこちらに向き直った本部長はいつもと同じ表情だった。
「今度、お土産にこういうお菓子を買ってこよう」
そう言って彼が私の頭にぽんぽんと手を置く。叫び出しそうになる口を必死で抑えながら彼を見上げると、カズサ本部長はやさしく目を細めながらこちらを見つめていた。
今度ばかりはドキドキと鳴る心臓を落ち着かせることが出来そうになかった。
2022.09.11