「は、半田くん?」
「……」

 彼は黙ったまま、私の手を引いて歩く。無言の時間が長く続き、途中私が呼びかけても彼は返事すらしない。恋人でもある彼が、こんなふうに私の話を聞かずに無視するなんて、初めてのことだった。彼は強く私の手首を握って、離さないとでも言うようにどんどん歩いていく。私は彼の歩調に合わせるため、ほとんど小走りになっていた。ここまで転ばずに歩いてこれたのが奇跡なくらいだ。
 彼は私の住むアパートの階段を登り、部屋の鍵を開けると、そのまま中に入っていく。靴は脱ぎ捨て、私の手を握ったままずんずん進んでいくものだから、私は玄関で靴を脱ぐのに焦った。玄関で靴を脱ぎっぱなしにするなんて、いつもきちんと脱いだ靴を揃える彼らしくない。

「はんだく――」

 ぐいっと手を引かれ、ソファに放り投げられる。バランスを崩してソファに転がる。ふかふかのソファは怪我をするようなものではないが、普通に勢いよく倒れ込めば痛い。打ったお尻が軽くズキズキと痛んだ。
 さっきまで強い力で掴まれていた手首も痛い。

「それで?」

 そう言って私を見下ろす半田くんの表情はとても険しい。部屋の明かりから逆光になっているせいもあり、ひどく圧がある。私は「えっと、あの……」を繰り返しながら、ソファの上で手足を縮こまらせることしか出来なかった。
 半田くんが怒るのも無理はない。私が吸血鬼退治で無理に前に出ようとしたのだ。私なりにいけると判断したのだけれど、彼の目からすると相当無謀な行動に見えたらしい。半田くんの「待てっ!」という制止も聞かず、飛び出して吸血鬼を切った。――そう、一応退治はしたのだ。ちょっぴり肩のあたりを噛まれたけれど。

「何か言いたそうだな」
「いえ、なにも……」

 こういうとき、言い訳をするのは悪手だ。これまで生きてきた経験から分かる。言い訳する姿は反省とは程遠く見え、相手をさらに怒らせてしまう。だから、何も言わないのがいい。きゅっと唇を噛む。
 優秀なダンピールである彼の判断は私よりも優れていただろう。私が吸血鬼を退治出来たのは結果論で、危ない橋を渡っていたのだという自覚もある。もし私が吸対だったら、勝手な行動は許されないのだろう。――私は吸対ではなく、ギルドに属する退治人だけれども。

「言いたいことがあるなら言えばいいだろう」

 ここで自分の意見を言えるのは強い人だと思う。これまで見たことがないほど、恐ろしい表情をしている。眉間には深く皺が刻まれ、瞳は鋭くこっちを睨んでいる。ここまで怒る半田くんは初めて見た。いつもはやさしい金の瞳がひどく冷たい光を放っている。

「黙ってないで言え」
「ひゃ……!」

 びくりと肩が揺れ、思わず小さな悲鳴が口から溢れ出た。そんなつもりはなかったのに。自分自身でも驚いて、咄嗟に手で口を塞いだけれども遅かった。
 いつも、ゲラゲラ笑っていたり、やわらかい表情の彼を見すぎていたから、こんなにも今の彼が怖く思えるのだろう。
 彼はまるで私の顔を初めて見たかのように、目を丸くさせていた。パチパチと瞬きを何度かしたあと、彼は気まずそうに私から視線を逸らした。

「あー、その……、怖がらせて、悪かった」

 予想外の言葉に、今度は私が驚く番だった。今まで怒られていたのは私の方で、悪いのも私の方だ。ぐずぐずといつまで経っても謝らずにいたのだから。彼が怒るのも当然のことで、半田くんは何も悪いことをしていないのに。「なに」と困惑する私をよそに、彼はしゃがんで、私と視線を合わせる。彼の怒りのオーラはいつの間にか消え去っていた。

「何か言いたいことがあるんじゃないのか。俺もお前が何も考えずに無茶なことをするとは思っていない」

 そこで、私はこれまで彼の言葉を勘違いしていたことに気が付いた。私は彼の言葉を『何か文句があるなら言ってみろ』という意味に捉えていたけれど、そうではなかった。本当に彼は私の考えていることを知りたくて問いかけてくれていたのだ。

「えっと、その、あのときは……」

 あのときの感覚を言葉にして説明するのは難しい。言い淀む私を、今度は彼もじっと待っていてくれていた。

「一瞬の隙が“見えた”というか、今しかないと思ったというか……。勘? みたいなもので、本当根拠とかはなかったんだけど……」
「退治人としての経験がそう判断させたのだろう。そういうことは、まぁ、あるだろうな」

 彼はダンピールとしての高い能力を持っていて、いつも自分の行動には根拠を持っていると思っていたから、私の言葉に納得してくれたのが意外だった。

「肩は大丈夫か?」
「あ、うん、平気だよ。全然深くはやられなかったから。本当に表面だけ」

 この分なら跡も残らずに数日で治るだろう。噛まれたのは、彼がここに来るまで掴んでいた手とは逆の肩で、ちゃんとそこは気遣ってくれていたんだなと今さら思う。大丈夫だよと、へらりと笑って見せると、彼は私を見て目を細めた。
 彼の腕が伸びてきて、私の服の襟ぐりを引っ張ると吸血鬼の噛み跡のある肩を出させた。突然のことに「ぎゃ」と短い悲鳴を上げる私を無視して、彼が傷跡を指先で撫でる。血も止まっているそこはもう痛みはほとんどない。怪我の具合を確かめてくれているのだろうと思っていると、不意に彼が口を開けて近付いてくる。何をしようとしているのか、何となく察せて、思わず彼の肩を両手で押して止めた。

「は、半田くん……!」
「なんだ、あいつには許して、俺はダメだとでも言うのか?」
「そういう問題じゃなくって……! それに、半田くんは吸血鬼じゃないでしょ!」

 血を食事としていないし、血液錠剤の代わりにする必要もない。そのはずなのに、彼は私の両手をそっと掴んで外すと、にやりと笑った。

半分は吸血鬼ダンピールだな」

 そう言って彼が私の肩に顔を寄せる。彼に握られた手はやさしくソファに縫い止められる。
 そこで私はやっと彼が先程まで怒っていた理由が半分は心配で、もう半分は別のことだったことにようやく気が付いたのだった。

2022.11.04