彼は、私が働く喫茶店の常連さんだった。
午後のランチタイムも終わってひと息つく時間。昼の慌ただしさが去って、溜まった食器の片付けも、このあとの仕込みも終わって、店内もまばらに空いている時間。
「すみません」
そう声を掛けられて「はい」と返事とともに振り返る。振り返った先には長い黒髪に眼鏡の男性。
軽く手を上げた彼の前には空のコーヒーカップ。先ほどまで一緒にいて、おそらくお仕事のお話をしていた相手はすでに席を立っていた。
「コーヒー、もう一杯お願い出来ますか?」
「あ、はい」
答えながらも内心驚いた。いつもならこのタイミングでお会計を頼まれるから、きっと今日もそうなのだと思っていた。
コーヒーをもう一杯頼むということはこのあとここでお仕事を続けるのだろうか。それとも、一休みのためのコーヒーだろうか。彼の仕事のことは分からないけれど、いつも大変そうだなと思う。
――そう思うとするりと言葉が出てしまった。
「お疲れ様です」
私の言葉に、彼の目が微かに見開かれる。彼の黒い瞳の真ん中に私が映っている。
……やってしまった!
「あの、今日はまだお仕事続けられるのだなと思って……! よく来てくださるので覚えてて! 珍しいなって!」
つい言い訳をしてしまったけれど、余計に怪しさが増しただけな気がした。そもそも店員に覚えられていることを嫌がられたかもしれない。
もう彼が来てくれなくなったらどうしよう。
口をつぐむと、店内BGMのゆったりとした音楽と食器の擦れる音だけが聞こえる。彼はまだじっとこちらを見つめるだけだった。――その目がふと細められる。
やわらかく、どこまでも深い瞳の色だった。
「ありがとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、まるで爆発したかのように私の顔に熱が集まった。
彼が微笑んでいる。
――彼が微笑んで、私にお礼を言ってくれた。
「コーヒー、少々お待ちください」
それだけ言うと、持っていたオーダーシートをぎゅっと胸に抱えてぺこりと頭を下げる。そのまま顔を見られないようにカウンターへ。
ドキドキと心臓が激しく鳴っている。
ああ、私はこの瞬間、恋に落ちてしまったのだ!
2021.10.13