私の好きなひとはとても優しい。

「わぁ、ドラルクさん好きっ!」
「はいはい、いいからずぶ濡れの体拭いて」

 そう言って彼が私にタオルを差し出す。丁寧に洗濯されたふわっふわのタオル。それを顔面に押し付けると彼の家のにおいがした。うちとは違う洗剤のにおいだ。

「本当にドラルクさんやさしい……好き……」
「これくらい普通だと思うけどね」

 彼は普通のことだと言うけれども、私にとっては彼の普通は十分美点だと思うのだ。私が惚れてしまうのも無理がないほどの。
 突然のゲリラ豪雨の中、傘もなく家まで走り切ろうとしていたところ、上から大きな声が降ってきた。見上げると事務所の窓からドラルクさんが少しだけ身を乗り出していて、雨宿りしていくように言われた。これ幸いと事務所に上がり込むと、待っていたのは大量のタオルで。これを優しさと言わずに何と言う。

「ほら、ちゃんと髪も拭いて」

 そう言って彼はもう一枚のタオルを手に、自ら私の頭を拭いてくれる。わしゃわしゃと拭かれるのが心地良い。毎日こんなふうに彼に髪を乾かしてもらえたらいいのに。

「はぁ……ドラルクさんと結婚したい」
「寝言は寝て言え」

 心からの本心だというのに、ドラルクさんはいつも相手にしてくれない。まぁ、彼ほど素敵なひとが、簡単に私なんかを好きになってくれるわけがないことは分かっている。

      *

「というわけで、しばらく修行することにしました」
「なぁにそれ、花嫁修行?」
「はな……っ!? そういうわけじゃないですけど、ちょっとでも彼に釣り合う人間になりたいなと思って」

 日曜の夜の新横浜ハイボール。カウンター席で、隣に座るシーニャさんとカウンターの向こうのマスターに相手をしてもらっていた。
 最近、お料理教室にヨガ教室、それに英会話教室にも通い始めた。お料理教室はドラルクさんと一緒に料理出来たら楽しいだろうなと思って。ヨガ教室は健康に良さそうだから。英会話教室は何となくノリで。色々一気に習い始めたので自由に遊ぶ時間が減ってしまったのは難点だけれども。

「でも英会話教室とかハードル高いなぁとか思ってたんですけど、これがやってみると結構楽しくて」
「へえ。講師はイケメン?」
「それがなんと……! イケメンです」
「いいじゃなぁい! アタシも通おうかしら」

 お料理教室やヨガ教室では新しくお友達も出来た。自分の世界がこうして広がるのは結構楽しいと思えるようになった。

「それよりも、ドラルクさん来てないんですね」
「まぁ、たまに遊びに来るけどそんな毎日は来ないわよ。会いたいなら直接事務所に行った方がいいんじゃない?」
「行ったけど閉まってて……」
「あら。じゃあ退治に出てるのかしらね」

 以前は仕事が早く終われば、ここや事務所に顔を出していたけれども、最近は習い事で忙しくてその時間も減ってしまっていた。普通に仕事も繁忙期に入り、残業も続いている。少し前は毎日のように顔を合わせていたのに、もう一週間は彼の顔を見ていない。

「ドラルクさん不足です……」

 グラスの中身を一気にあおり、そのままカウンターに突っ伏す。会いたい。習い事に時間を取られて彼に会えないなんて本末転倒な気がしないでもない。でも、これも彼に相応しい人になるため!

      *

 仕事、英会話教室、激務、残業、お料理教室、残業、ヨガ教室、残業、残業残業……。気が付くとさらに二週間が過ぎていた。

「こんばんは!」
「今日はいつもより遅かったじゃねぇか!」
「実は英会話教室の帰りで」

 私の方を見てマリアさんが声を掛けてくれる。
 教室帰りだけど、今日は金曜だし、絶対にドラルクさんに会うぞという気持ちで新横浜ハイボールにやってきた。会えなければ会えるまで待っている勢いだ。お気に入りのワンピースで着飾るほどの気合いの入れようだ。
 マリアさんと話しながらキョロキョロと周りを見渡すと――いた。細身のシルエットに、クラシックスタイルのスーツ、マント。ずっと会いたかったひとの姿がそこにあった。

「ドラルクさんっ! お久しぶりですね!」
「ああ、君か」

 そう言って彼は視線だけこちらへ向ける。そのことに少しだけ違和感を覚える。その視線がどこか冷えているような気がして。
「私は出来れば、このまま君の顔を見ずに済んだ方が良かったけどね」
 視線を正面に戻して彼が言う。やっぱりおかしい。いつも彼は私と話すとき、絶対に目を見て話してくれる。それにいつもより声が低くて固い気がする。

「……なんか今日のドラルクさん、変じゃないですか?」
「私はどこも変わらないさ。変わったのは君の方だろう」
「私が?」

 全く覚えがない。変わったとすれば、習い事で自分が磨かれ、目指す理想像に一歩近付いたのかもしれないが、そんな一目見たくらいで分かるほどの変化はないはずだ。――でも、ドラルクさんほどのひとになれば、そんな些細な変化さえも捉えられるのかも!?

「……君さぁ、最近イケメン英会話講師に夢中なんだって?」
「夢中って……何ですか、それ?」

 どこ情報だ、それは。まぁ確かに私の講師にイケメンな人はいるけれども、ただそれだけだ。夢中と言うほどその人に興味はないし、当然恋愛的な感情は一切抱いていない。私が好きなのはずっとひとりだけ。

「誤解です!」
「隠さなくてもいいよ。そのワンピースも英会話教室の帰りだからなんだろう? とっても似合っているよ」
「えっ! 本当ですか!?」

 好きなひとに褒められた! 思わず顔が赤くなる。久しぶりに会ったからか、いつもより嬉しさ倍増だ。

「講師の彼にも褒められただろ?」

 それなのに、彼のまだ誤解している様子に、その喜びもすぐに萎んでしまった。

「だから! 私はドラルクさん一筋ですってば!」

 そう伝えると彼は私を見て、ぐっと一瞬言葉を詰まらせた。けれども、それも本当に一瞬のことで、次に彼が口を開くと、いつも通りなめらかに言葉が踊り出てきた。

「へえ。じゃあ、“押してダメなら引いてみろ作戦”でもしているとでも言うのかい?」
「してないです!」
「じゃあ急に三週間も会いに来なかった理由は? 他に好きな男が出来たわけでもなく、駆け引きでもなく、私に愛想を尽かしたわけでもないなら、なんで?」
「それは……」
「それは?」

 いつの間にか、右の手首を彼に掴まれていた。まるで本当のことを言うまで逃がさないとでも言うように。痛くはないけれども、簡単に振り払えそうにない程度には強い力だった。

「……ドラルクさんにふさわしい人になれるように、と」

 こんなふうに言うつもりじゃなかったのに! 習い事を始めたことは話の種としていつか言うつもりだったけれど、理由は恥ずかしいから伏せるつもりだったのに。

「は?」
「どうですか? やっぱり少し変わったの分かりましたか!?」

 そう言って彼にずいと近付く。勢いよく近付きすぎて、距離を保つために彼が思い切り背を反らした。そして、ポンと音が聞こえそうなほど一瞬でドラルクさんの頬がかすかに赤く染まる。

「ハァァ!?」

 彼の大きな声が店中に響いた。

2022.07.03