「私のフィアンセはどこですか!?」
そう言って事務所のドアを開けたけれども、今日も私の婚約者は留守だった。
*
綺麗な三日月が浮かぶ新横浜の夜に冷たい風が吹く。ひとり、公園のブランコに座って夜空を見上げていると心細い気持ちになる。
「今日も会えなかった」
もう何日も会いに行っているのに、その度に彼は不在だった。日が暮れてすぐに訪ねてもダメ、夜明けギリギリに行ってもダメ。毎日時間を変えて会いに行っているのに、いつ行ってもいるのはロナルドさんだけだった。
「早くアタックしなきゃいけないのに」
許嫁として必ず結婚するために、彼を落とすと決めたのだ。離したくないと彼の方から言うくらいにメロメロにする。その作戦もいくつか考えたというのに今のところその出番はなかった。
ブランコの鎖がギッと鈍い音を立てる。
「やっぱり、避けられてる、のかも……」
口に出してしまったあとで後悔した。声にしてしまえばそれが真実のように思えた。
知らない街にひとりでいるのは心細い。この一週間で退治人ロナルドとは少し仲良くなったけれども、それだけだ。そのロナルドさんも友人と呼ぶには遠い関係だ。
あの城が恋しかった。
「こんなところにいたのか」
恋しく思うあまり幻聴が聞こえたのかと思った。ゆるゆると顔を上げると、私の婚約者が目の前に立っていた。
長身の彼はマントを夜の闇に溶かして、私と目が合うとゆるく目を細めた。
「悪かったね。留守にしていて」
ギッとまたブランコが鳴る。
「まさか毎日訪ねてくるとは思わなかったから」
「また来ますって言ったじゃないですか」
「そうだね、ごめんね」
今日の彼はこの間よりやさしい。彼なりに思うところがあったのかもしれない。
やさしくて、やわらかくて、夜の闇に溶けてしまいそうな私を甘やかす声。――お城にいたころを思い出した。
「私はあなたの許嫁なので会いに行く権利はあるはずです」
私がそれを言うと彼の表情が苦くなる。こっちはまだ信じてくれていないのかと悲しくなる。
口にしない方が良かったかとも思ったけれど、もう言ってしまったものは戻らない。
「それ、どこまで本気なの?」
「どこまでも本気です」
私が彼の許嫁であるのも本当だし、結婚するつもりなのも本気だ。
きっと挑むように彼を見上げる。ブランコに座っているせいで顔をほとんど真上に向けなくてはならなかった。
彼はまた怒るかと思っていたのだけれど、意外にも彼は私から顔を背けて視線を左右に泳がせた。まるで予想外だとでも言うように。
それから何か言葉を探すように一度二度口を開いては閉じたあと、意を決したかのように視線を私に戻した。
「だって、きみ、私の名前を呼ばないじゃないか」
「……」
――気付いていたのか。
バレていないと思っていた。正確にはそれに気付くほど私に心を砕いていないと思っていた。
昔はドラルクお兄さまと呼んでいたのだ。けれどもいつしか彼を兄と呼べなくなってしまった。これは兄に向ける感情ではないと気付いてしまったから。
城に彼と私とジョンの二人と一匹だけのときは良かった。『あなた』と呼びかけて、ジョンは『ジョン』と呼べば良かったから。それだけで良かったから。けれども彼が城を出て多くの人と関わるようになってからそれだけでは立ち行かなくなってきて。呼び方をうまく変えられないままここまで来てしまった。
その名を口にしたくないわけじゃない。ずっと、ずっと本当は呼びたかった。
「ド――」
私が口を開けば、彼が視線を上げる。その瞳はこちらを品定めするように、もしくは期待しているようにも見えた。
「ドラルク、さん」
久しぶりに呼んだ彼の名が舌から転がり出る。一度呼んでしまえばどうして今まで我慢出来ていたのか不思議なくらいだった。
早く応えてほしかったのに彼は目を丸くさせたまま固まっている。彼のマントの端を掴んでちょっと引っ張ってみると、ハッと我に返ったかのようにびくりと体を強張らせた。
「ちょっと待って。昔みたいにお兄さまと呼ばれるもんだと思ってたから心の準備が……」
「ドラルクさん」
「だから待て!」
右手をこちらにかざして、反対の手で顔を覆ってしまったので表情が見えない。
嫌、だっただろうか。
「分かった、分かったから!」
彼がそう言ってマントの端を握っていた私の手を掴んで引き剥がす。焦っているような声とは裏腹に、私の手を握る指先はひどくやさしかった。
「次来るときは事前に連絡してくれ。君の好きなお菓子とボードゲームを用意しておくから」
もうふたりと一匹だけのお城じゃないけれど。それでもまだ、ゆるされるのなら。
2021.12.03